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梔子/1
あのボロボロのお家はなぁに。 どうして壊してしまわないの。 あそこには近づいてはダメ。 あの家には気の狂った男が住んでるの。 噂によると、昔、男娼だったんだってよ、あの家に住んでるジジイって。 うっそ、あんなに汚いのに? ねぇ、あのおじいさん、どうして南の空ばっかり見てるのかなぁ。 なんでかなぁ。 その若い将校に初めて会った時、美しさに息を呑んだ。 真っ黒な髪を後ろに撫でつけ、背筋を凛と伸ばしたその姿。 聡明そうな額にはらりと落ちた幾筋かの前髪。 まっすぐの鼻梁と長い睫で縁取られた大きな黒い瞳。 すっと筆で描かれたような眉に、きりりと引き締まった唇。 その清廉な美しさは青年が今までこの場で見たことのないものだった。 何をしに来たのだろう、こんなところに。 その瞬間、その将校は青年のほうを振り向いた。 優しげな瞳が細められ、まっすぐに結ばれた唇の両端がほころぶ。 彼が微笑んだと気付くまでには時間がかかった。 まるで夢を見ているような気分で、青年はその将校を見つめた。 こいつは、こういうところが初めてでな。 がはは、とその将校を連れてきた上官らしい中年の男が笑う。 どうかいいのをあてがってやってくれ。 この中年の男は知っている。 時々やって来ては大金をふりまくので、店にとってはお得意様だった。 青年も相手をしたことがあった。 何だ、お前、あいつが気になるのか。 いえ…いや、ええ、そうですね。 若い軍人は微笑んだ。 お前は遊んでない割にはえらく目が高いな。 あいつはこの店の一番人気の男娼だ。 値段も高いが気位も高いぞ。 お前には無理だ、やめておけ。 そうですか。 道理で。 呟くように、目を伏せる。 お美しい方だと思いました。 青年はその将校の傍に歩み寄り、黙ってその手を取る。 そうして、部屋に連れて行く。 将校はびっくりしたような顔で後からついてきた。 後ろから茶化す声が追いかけてきた。 脱ぎなよ。 いえ、わたしはこのままで。 青年は驚いて将校を見つめる。 このままって…脱がなきゃ出来ないよ? お話をしましょう。 若い将校は膝を折って、下座に正座をした。 屯所ではあまり会話がなくて、 人とお話をすることに飢えているのですよ。 腰帯に手をかけたまま佇む青年を微笑んで見上げる。 ば、馬鹿いってんじゃないよ。 青年は怒鳴った。 ここを何処だと思ってるんだい。 ここはねぇ、男娼専門の売春宿だよ。 ここに来るやつはみんな尻の穴に突っ込むために来るんだ。 話をするために来る馬鹿がどこにいるんだ。 それでも将校はにこにこ笑って言った。 ここに。 そうして、軍服の上着のポケットをごそごそ探り、小さな四角い箱を取り出す。 配給で頂いたのです。 最近では珍しいでしょう。 一緒に食べましょう。 甘いものはお好きですか? 取り出したそれは、キャラメルの箱。 箱を開けて、油紙に包れた一粒を取り出して、丁寧に剥く。 質が落ちているのか、古いのかわかりませんが 紙が中身とひっついてましてね。 これを取るのはコツがいるんですよ。 そうして器用に剥いたキャラメルを差し出す。 はい、どうぞ。 あっけに取られた青年は、うっかりそれを手に取る。 将校は嬉しそうに笑う。 それから二人は向かい合って座って、話をした。 青年は、その若い将校の笑顔につられて、今まで話したことのなかった自分のことも話した。 貧しい農家の五男として産まれたこと。 6歳になった時に口減らしの為にこの店に売られたこと。 それからずっとここで客を取ってきたこと。 戸籍上は自分は死んだことになっていること。 だからさ、俺、じゃなくて、あたし… 俺でいいですよ、男の方なんですから。 お、俺はさ…赤紙がこないんだよ。 そうですか。 青年は、少し気後れした。 人前で「俺」という呼称を使うのは禁じられていた。 だから6歳で売られてから今まで、人と会話する時に俺、という呼称や、 男言葉を使うことはなかった。 貴方は? わたしですか? 貴方はきっといいとこのおぼっちゃんだよね。 そんな匂いがする。 すごく育ちがよさそうで、品がいいもの。 そうですか。 普通の家に育ちましたよ。 教えてよ、貴方のことも。 わたしは東京の小石川で産まれ育ちました。 わたしは長男で、妹が一人おります。 父親が軍人でしたので、わたしも大学を卒業して、そのまま海軍に入りました。 この戦争では一度出征しまして、今は内地に戻っております。 軍人だった、って? ああ、父ですか。 亡くなりました。 今回の戦争で、船と共に海に沈みまして。 そう… その時、日本は世界を相手に喧嘩をしていた。 同盟を結んでいたイタリアがあっという間に降伏し、ドイツも陥ちた。 日本は沈鬱で虚しい気配の中、やけくそのように喧嘩を続けていた。 そんな時だった。 ああ、よく話した。 とても楽しかったです。 ありがとうございます。 将校は時間が来たとの声に立ち上がりながら、笑った。 キャラメル、美味しかったよ。 そうですか。 将校は微笑んだ。 そうですか。 それはよかった。 戦争の最中にも、こういう商売は廃れることはなかった。 だから、通常の人たちが想像もつかないような金回りのよさであったし、 物資もどこから来るのかは分からないが、相当に贅沢なものも手に入った。 青年は、キャラメルよりも遥かにいいものをいくらでも口に出来た。 だけれど、将校が丁寧に一粒一粒剥いてくれたキャラメルは 他のどんな贅沢な食べ物よりも美味しかった。 また来る? 青年は部屋を出て行こうとする将校の袖を軽く引いた。 ねぇ、また遊びに来る? 将校は微笑んで答えた。 ええ、きっと。 将校が帰ってしまったあとで、青年は部屋に残されたキャラメルの包み紙を 丁寧に一枚一枚ひろいあげて、そっと畳んで懐にしまった。 そうして、青年は将校が自分では一つも食べなかったことに気付いた。 また来てくれるかしら。 ぽつりと一人呟いて、ぶるぶると首を横に振る。 いけない、いけない。 客にそんなこと思うなんて。 それに、あの将校はまだ若いし、お金も権力も大して持っていなさそうだ。 金づるにもならない男なんて、相手にするべきじゃない。 利用価値は一つもないじゃないか。 何を考えているんだ、俺。 その夜、青年は枕の下にキャラメルの包み紙を挟んで寝た。 散歩してくる。 数日後、青年はそう店に行って外に出た。 こういう時には店の用心棒が必ずお供につく。 逃げ出すのを防ぐためだ。 売春宿に身売りされた者は、それぞれ親に対して支払われた金額に利子をつけて 店に支払わなければ足抜けすることが出来ない。 お前、あんまり傍に寄るなよ。 仕事ですから。 用心棒は青年のかなり近くを歩く。 ちょっと腕を伸ばせば届く範囲から離れない。 男娼は普通の格好をしていてもそれと知れるようで、 街を歩くと人々が振り返り、コソコソと陰口をたたく。 だから青年はあまり出歩くのが好きではない。 ねぇ、そう言えば、海軍の屯所がこの辺になかったっけ。 さりげない様子でお供の用心棒に訊ねる。 ああ、ありますよ。 へぇ、どこ? 三本向こうの筋ですよ。 大きな運動場があって。 行ってみようかな、どんなのか見てみたいし。 駆け出したい気持ちを押さえて、わざとぷらぷら歩く。 運動場では男たちが体操をしていた。 短い距離を何度も往復する者、馬跳びをする者、腰に重しをつけて 四つんばいになって進む者。 その広い運動場の外周をぐるぐると走っている数人の中に、 青年はすぐにあの将校の姿を見つけた。 白の運動着が目に眩しかった。 将校は下を向いて、黙々と走っていた。 白のズボンに白のランニング。 細いようで、案外しっかりと筋肉がついて、しなやかな身体をしていた。 色白の端正な顔を俯けて、青年は黙々と走っていた。 長い腕を振るたびに背中の筋が盛り上がった。 あ… 青年は声をかけようとして、止めた。 世界が違うと思った。 あまりにも違いすぎると感じた。 若い将校は凛々しくて美しかった。 その禁欲的な物腰、明るい笑顔、丁寧な言葉づかい、清潔な雰囲気。 何もかもが青年には手の届かないものだった。 望んでも、望んでも、手に入るべくもないものだった。 汚してはいけない、と思った。 それに、青年はあの将校の名前も知らなかった。 かーえろ。案外つまんないや。 青年は軽々しい口調で、用心棒に聞こえるよう、大きめの声で呟いた。 だけれど、その声は震えていた。 一瞬でも望んだ俺が馬鹿だったんだ。 何考えてたんだろう。 期待しちゃって。 馬鹿みたいだ。 いけない。 もう思い出してはいけない。 普通の生活と同じように、いや、それよりももっと自分には手に入れられないもの。 望むことすら叶わないもの。 おい、ご指名だ。 青年に声がかかる。 青年はこの店での一番人気であったし、歳の割には経験も積んでいたので 客の顔を見て、断ることも出来る身分だった。 どんな奴? 若い軍人だ。見たことがあるような気がする。 どきん、と胸が高鳴った。 まぁ顔を見て、イヤなら断ればいい。 下に行って見てこい。 あ、うん。 青年はもつれそうな足取りで階段を降りていく。 そこには、あの将校がいた。 涼しい面差しできりりと立っていたが、青年を見つけると微笑んだ。 こんにちは。 青年は吸い寄せられるように将校に近づいた。 また…来たの。 はい、来てしまいました。 にこにこ笑う将校を見て、青年は泣き出したくなった。 泣いてその黒い軍服に覆われた胸を叩きたくなった。 だけれど、青年は少し顎をあげて、生意気そうな顔で言った。 勘違いさせたなら悪かったけどさ。 あたし、あんたには興味もないし、もうあんなの嫌なんだよね。 だって大体バカにしてるじゃないか。 売春宿に来て身体にも触らずに帰るなんて。 あんたみたいな客はごめんだよ。 かえんな。 若い将校は少し悲しそうな顔をした。 しかし、彼は手にした布袋を差し出した。 わかりました。帰ります。 でもこれだけでも受取って下さい。 青年はうっかりそれを手にする。 布袋はずっしり重かった。 わたしたちの屯所の裏庭にある畑で採れたのです。 貴方は少し細すぎるから、食べて頂こうと思って。 そうして、ふんわり微笑む。 では、失礼します。 そう言うと、敬礼をして、背を向けて帰ってしまった。 青年が布袋を開けてみると、中には大きな馬鈴薯が沢山入っていた。 大きくて、まんまるで、土のついたままごろごろと。 待って、まって、まって 青年は駆け出した。 店の者が慌てて後を追ってくる。 将校は振り向いた。 待って、まって。 どうして。 どうしてこんなによくしてくれるの。 どうして。 どうしてなの。 楽しかったから。 将校は微笑む。 貴方とお話させて頂いて、とても楽しかったものだから。 ですから、ついまた足を運んでしまいました。 貴方に会いたかったものだから。 微笑む将校は、大変に綺麗な顔をしていた。 青年は、もう突き放すことなど出来なかった。 前の出征ではシナに行きました。 その若い軍人は青年に導き入れられた部屋に正座をして、静かに話す。 シナではね、偉い人は馬に乗るのですけれど、わたしたちのような下っ端は歩くんですよ。 それはそれは大きな荷物を持ってね。 昼も夜もなく歩くんです。 シナの広さには驚かされます。 歩いても歩いても目的のところまで着かないんですよ。 寝る暇もなく歩くので、たいそう眠いのです。 それで、先頭の者が馬のしっぽをこう、掴みましてね。 後ろの者は前の者の上着の裾を掴むんです。 それで、半分眠ったまま歩くんですよ。 一度、そうしてずるずると歩いていた時のこと。 隊列の中の一人が手を離してしまったんですよ。 そうして立ち止まって眠り続けてしまったんです。 目を覚ました時には前に何も見えなくなってしまって。 後ろには自分の上着の裾を掴んだ戦友たちの列が立ったまま寝ているわけです。 あの時は大騒ぎでしたよ。 あ、わたしじゃないですよ、その手を離した者は。 わたしはその4人後ろで立ったまま寝てました。 若い将校の、そんな話を聞きながら笑った。 大して面白くもない話であったし、その将校も面白おかしく話すわけでもなく、 静かに、物語を読むように話していたのだけど、青年は笑った。 安心して笑ったのは初めてのような気がした。 それからも、その将校は何度も足を運んでやってきて、その度に、二人はただ 向かい合って座って、他愛もない話をした。 あいつに気をつけろ。 店の主は用心棒に声をかける。 あいつは最近浮わついてる。 どうもあの海軍兵さんに熱を上げているようだ。 夜逃げしないとも限らん。 目を離すな。 はい。 ねぇ、今度の戦争が終わったら貴方はどうする? そうですね・・・貴方は? お、俺? 俺はね・・・俺・・・この店を出たいな。 そうですね、きっとそうして下さい。 将校は微笑む。 青年は胸の鼓動を抑え、努めて涼しい顔をした。 ねぇ、貴方は? わたしは静かに暮らしたいです。 田舎のほうに小さな畑でも持って、 ゆっくり耕して、ゆっくり季節を楽しんで、 そして、この国の行く末を見たいと思います。 そうか、そういうゆっくりした生活は、貴方に似合ってるね。 そうですか。 貴方もきっと気に入りますよ。 お、俺? ええ。 きっと素敵だと思います。 雲雀がさえずって、虫がぶんぶん言って お日様が燦燦と照って。 将校は、少し頬を赤らめる。 そして、貴方がそこにいたら。 きっととても素敵でしょう。 ね、ねぇ、それってどういうこと? 青年は心臓が喉にあるような錯覚を覚えた。 非常に勝手な言い分だとは思うのですが。 将校は赤い顔で、それでも青年をまっすぐに見詰める。 わたしは今度の戦争が終わったら 貴方を迎えに来たいと思っています。 いつになるかは分かりません。 それだけのお金を手に入れられるかもわかりません。 ですが、きっと、貴方をここから出したいと思っています。 そ、それって、俺を身請けしてくれるっていうこと? そうです。 何年かかっても、ここから連れ出したいと思っています。 本当に・・・? だって、だって俺、俺・・・ 青年はぼろぼろと涙をこぼす。 だって俺、男娼だよ? 俺、ずっとずっと身を売ってきたよ。 俺、何人もの男の手垢にまみれてきたんだよ。 駄目だよ、そんなこと言ったら。 貴方はすごく綺麗なんだ。 そんなに綺麗なのに、俺なんか、駄目だ。 俺なんか。 こんな汚れた俺なんか。 貴方にふさわしくない。 貴方はそんなこと、考えてもいけないよ。 将校はすっと手を差し出す。 そんなことを言ってはいけません。 貴方は綺麗です。 美しい方です。 御覧なさい、わたしの手を。 それは優しい掌だった。 白くて、繊細で、指が長くて、優しい掌だった。 わたしの手は血で染まっています。 わたしはこの手で何人ものシナ人を殺しました。 それは沢山殺してきました。 引き金をひいたこともあります。 この手で刀を持ち、首を掻き切った事もあります。 わたしの手は血で汚れているのです。 わたしこそ、貴方のような美しい人には相応しくない。 そんな、そんなことない。 だって貴方は軍人だもの。 軍人だから仕方がないもの。 それを言ったら貴方もそうでしょう。 しかも貴方は自分の道を選ぶことが出来なかった。 わたしは選択しました。 自分で人殺しの道を選んだのです。 青年は将校の手にすがりついた。 優しい掌を自分の頬に擦り付けた。 違う、違うよ。 貴方は人殺しなんかじゃない。 貴方は軍人なんだ。 貴方は俺たちの為に人を殺したんだ。 貴方の罪は、俺たちの罪なんだ。 貴方は悪くない。 貴方は汚れてなんかいない。 貴方に触れてもいいのでしょうか。 将校は涙を流していた。 わたしはずっと貴方に触れることが出来ませんでした。 貴方は美しいです。 初めて拝見した時に、このまま時が止まればいいと思いました。 それくらい、貴方は美しかったのです。 生きていると感じさせられる、強い美しさでした。 わたしは、ここにもう来てはいけないと思ったのです。 強く思ったのですが、どうしても足を止められなかった。 貴方をもう一度拝見したかったのです。 貴方ともう一度お話がしたかったのです。 だけど、ここに来ているうちに、今度は触れたいと願うようになりました。 貴方に触れてはいけないと、自分を律してきました。 貴方のような美しい人に、この血で染まった手を触れてはいけない。 貴方が汚れてしまいます。 こんなに美しいのに、汚れてしまいます。 身請けしたいと言っているのは、わたしの身勝手な願いです。 ですけれど、わたしは貴方をここから連れ出したいのです。 貴方はどこにいても美しく強く生きられる方だけれど、 だけど、もっと相応しい場所があると思うのです。 わたしは貴方をそこに連れ出したいのです。 お空が青いね、と日の光の下で歌う貴方を見たいのです。 その隣で笑っているのがわたしでなくとも構いません。 ただ、わたしは見たいのです。 貴方のその姿が見たいのです。 青年は将校に抱きついた。 そうして泣いた。 二人は抱き合って泣いた。 気をつけて帰って。 この界隈はとても危ないから。 軍服を着ているから大丈夫でしょう。 将校は少し泣きはらした目を細める。 貴方こそ、今日はもう眠りなさい。 疲れたでしょう。 ねぇ・・・ねぇ、いつか。 いつかきっと、こんな風に寂しくお別れしなくても いい日が来るよね。 ずっと一緒にいて、ずっと一緒にものを見られる日が来るよね。 ええ、きっと。 きっと来ますよ。 この戦争が終わったら、きっと来ます。 早く終わるといいのにね。 そうですね。 どうして戦争なんてするんだろう。 それはとても難しい質問ですね。 また今度お話しましょう。 わたしの知ってることは何でも教えてさしあげます。 …うん。 ねぇ、また来るよね? 貴方のお許しが頂けるのなら。 当たり前じゃない。 どうして許さないわけがあるの。 絶対に来て。 ね。 貴方の帰ってくるところは俺のところだよ。 分かりました。 肝に銘じておきます。 将校は青年の頬に手をあてる。 わたしは必ず貴方のところに帰ってきます。 うん、絶対だよ。 ええ、必ず。 そうして敬礼をして、将校は帰って行った。 青年はその後姿が見えなくなるまで、店の前でずっと見送った。 →next ←back to top |