梔子/2



戦禍はますますひどくなる一方だった。
虚偽の華々しい速報も種切れと見えて、街に号外が出ることも少なくなった。
目に見えて、敗戦の影が日増しに濃く人々に影を落としていった。




ねぇ、日本は負けるの。

そうですね、負けるでしょう。

いつまでやるのかな、この戦争。

あまり大きな声で言ってはいけませんよ。


将校は青年の髪に指をくぐらせて、頭を自分の胸に引き寄せる。


どこで誰が聞いているとも分かりませんからね。

そうだね、最近物騒な噂も絶えないものね。



二人は相変わらず結ばれてはいなかったが、時々こうして身を寄せ合うようになっていた。
青年はいつでも将校を求めたけれど、将校は一緒になれるまでは、と譲らなかった。



でも、早く終わるといいな。
だってさ、貴方はこの前シナから帰ってきたばかりなんでしょう?

そうです。

だから、次に出征するまでにはもう少し間があるよね。

そうでしょうね。

だから、その前に終わって欲しい。
そしたら行かなくていいものね。
そしたら、俺のそばにずっといてくれるもの。

わたしは最近色々と考えますよ。

何を。

わたしはここにこうしていていいのか、と。

どういうこと?

わたしは貴方を守るために戦いに出るべきなのではと思うのです。
わたしは軍人ですから、貴方の為に出来ることは戦うことしかありません。
貴方や、この国の為に出来ることはそれだけなのですよ。

そんなことないよ。
貴方はここでこうしていてくれるだけでいいんだよ。
俺のそばにいて。
俺のそばから離れないで。
ね、お願い。
もう戦争なんかに行かないで。


青年が胸にしがみつくのを受け止めて、将校は静かに話す。


この前、戦争は何故起こるかについてお話しました。
覚えてますか?

うん、難しかったからよくわかんないとこもあるけど。

ええ、それで十分です。
そして、わたしは考えるのですよ。 今なお、戦いが終わらないのは何故なのか。

それは、より有利な講和の条件を模索しているから、でしょ?

そうです、よく覚えていますね。
もう水面下では講和の話し合いは始まっていると思われます。
それが日本にとっては受け入れがたいものであるのでしょう。
だから戦いは終わらないのです。

では、立場を米英に置き換えてください。
貴方が米英ならどうしますか。
圧倒的優位な軍事力、物資を持ち、間違いなく余裕で勝てる戦争です。
それなのに、今にも負けそうな黄色人種、彼らにとっては猿とも等しい者が、
屈服しないのです。
明らかに負けると分かっているのに、条件を呑まないのです。
さぁ、貴方ならどうしますか。

叩き潰す。

そうですよね。
より穏健な代替案を出すよりも、徹底的に叩き潰すほうが楽ですし、理にかなってます。
再び立ち上がれないほどの深手を負わせるのです。

どういうことなの。

本土決戦ですよ。
英米は上陸間近なところまで進軍してきています。
もう時間の問題でしょう。

ここも焼け野原になるってこと?

そうなるでしょう。

それはちょっと嬉しいな。
そしたら、今まで俺のことを後ろ指さしてきた人たちが火で焼かれて逃げ惑うんだ。
俺にないものを沢山持ってた奴らが、全部そういうの、燃やされちゃうんだ。
それは少し愉快だな。

そんなことを言ってはいけません。


将校は珍しく、ぴしゃりと言う。
青年は少しぴく、と震えて怯えた。


人にはそれぞれ大切にしているものがあるでしょう。
その大切だと思うものが、人によっては違うし、場合によっては他人から見たら
取るに足らない、些細でくだらないものかもしれません。
でも、それはその人にとってはとても大切なものなのです。

わたしが貴方を大切だと思うように。
貴方がわたしを大切だと思ってくださるように。

それがなくなってしまうことを愉快とか、そんな風に言ってはいけません。
わたしは貴方がいなくなったら気が触れます。
貴方がいなくなったら、それだけでわたしの人生は意味のない、
空虚なものになってしまいます。
わたしはもう生きていたいとも思いません。

だから、わたしは自分にとって些細なものでも、それが誰かの大切かも
分からない、そう思うのですよ。
この世にあるものはすべからく意味があるのです。
望まれて、求められてそこにあるのです。
だから、なくなってもいいなどと思うのは非常に間違った考えです。


将校は青年を固く抱きしめて、静かに、しかし力強く話した。
青年はよく理解できた。
彼の発する言葉を大変によく理解できた。


お、俺、ちょっと恥ずかしいな・・・
自分のことしか考えてなかった。
そうだよね、俺だって、貴方がいなくなったらどうしていいかわからないもの。
貴方を失うなんて嫌だもの。
だから、きっとみんなもそうだよね。
ここが燃えなくて済むなら、きっとそうしたほうがいいよね。

そうですね。
そしてまた、燃えずとも崩壊することもありえますね。
ですから、講和の条件というのもまた、非常に大事なものなのです。
国は今、天秤にかけているのだと思います。
燃えて失うものと、講和によって失うものを。

どういうこと。

こうなると少し難しいのですが。
分かりやすいところでお話すると、例えば天皇陛下ですね。
きっと米英は陛下を戦犯として裁く、もしくは天皇制の廃止を求めてくるでしょう。

で、でも天皇陛下は神様だよ。

そうです。
陛下の権威が失墜するということは、陛下を神としている臣民にとっては、
個の在り所の崩壊を意味します。
そこまで陛下に己の存在意義を投影している者がどれだけいるかは話が別ですけれどね。
わたしにとっての貴方、貴方にとってもわたしが、存在しなくなるのと似ています。
それは国家として是なのか、非なのか、というと、簡単に答えは出ないでしょう。

うーん、そうかもしれない。
隣の長屋の爺さんくらいになると、竹槍持ってでも戦艦に突撃しそうだもの。
爺さんはそうしてでも陛下をお守りする道を選ぶと思うな。

ですから、講和の条件というのも大変に難しいと思います。
日本としてはより多くの時間を稼ぎたいところでしょう。


そうして、将校は少し遠い目をした。
青年はその目がとても悲しく、不安に感じられて、将校の胸にすがりついた。


貴方はどこにも行かないで。
俺の為に、俺が大事なら、きっと一緒にいて。
俺のところに帰ってきて。

ええ、わたしは貴方と共にあります。
いつでも。
必ず。




それからしばらく、将校の足取りは途絶えた。
青年は毎日窓から表通りを眺めて、将校の来るのを待った。

将校の言葉を信じていた。
いつでも、必ず。
そう言う彼の言葉を信じて待った。




そうして、数週間が過ぎた後、将校は店にようやく姿を現した。

青年に真正面から向き合う。


明朝、基地に入りますので、今日でお別れです。

どうして。
今度はどこに行くの。

今度は飛行機に乗ります。

…飛行機…?

ええ、神風作戦に参加します。

しんぷう?それは何?

爆弾を抱えて、敵艦に体当たりを試みます。


息を呑んだ青年に、将校は敬礼をする。



お国の為に散って参ります。



い、いやだ、そんなのいやだ。
どうして。
どうしてなの。
迎えに来るって言ったじゃない。
俺をここから連れ出してくれるって言ったじゃない。
俺のそばにずっといるって言ったじゃない。
あれは全部嘘だったの。
でまかせだったの。
ひどい。
ひどいよ。


将校はその罵声に耐えて、じっと俯いて聞いていたが、ふと窓の外に目をやった。


ああ、ほら、ご覧なさい。


若い将校は窓からそっと手を出す。
視界から消えたその掌は、再び視界に入った時には、真っ白な梔子の花で飾られていた。


美しいですね。


そうして、真っ直ぐの鼻梁を花に寄せる。


こちらにおいでなさい。


赤い髪にそっと飾られた白い花。


いい匂い。

そうでしょう。
梔子の香りは格別です。
わたしはこの香りが好きですよ。

うちの母などは、あまりこの花が好きではないようです。
枯れる時の醜さが嫌だと申しまして。
醜悪な姿を枝にさらさないで、潔く散ってほしいと言います。
例えば桜のように。


そうして少し寂しそうに笑う。


白い花で彩られた赤い髪が軍服の胸に落ちる。


俺はね。
俺はこの花、好きだよ。

だって頑張ってるんだもん。
最後の力がなくなるまで、枝にしがみついて、頑張ってるんだもん。
諦めないでしがみついてるんだもん。


将校は赤い髪に唇を寄せる。


わたしもそう思います。

貴方は今はとても美しくて、この花のようです。
だけど、お願いです。
もし、歳をとって、白い花弁が茶色く染まっても。
どんな姿になっても、最後まで枝に残っていてください。
最後まで生きて下さい。


この国の行く末を。
どうか見て下さい。

わたしの目を貴方に預けますから。
どうか、どうか。



赤い髪が黒の軍服に深くうずまる。



どうして。
どうして行かなきゃいけないの。
犬死しに行かなきゃいけないの。
どうして。
帰って来れない旅に出なければいけないの。
いかないで。
お願いだから行かないで。
そんなことしたって日本はもう負けるんだ。
もう負け戦なんだ。
だから行かないで。


若い将校は、その髪を梳る。


わたしはね、今回の神風作戦に志願したのです。
自ら望んで行くのです。

どうして。
どうしてそんなバカなこと。

もう米英はそこまで来ているのですよ。
貴方がいつ戦火に焼かれるか分からない、そんな近くまで来ているのです。
日本はもう負けます。
あとはどう負けるか、なのです。

わたしは必ず敵艦に体当たりしてみせます。
明後日の早朝に、どうか遠くの空を眺めて下さい。

この国を、貴方を一分一秒でも守りたいのです。
その間に講和が結ばれれば、それで本望ではないですか。
わたしの死は犬死にではないのですよ。


怖くはないの。
死ぬんだよ。
きっと痛いよ。
怖くないの。


ふ、と優しく笑う。


恐ろしいと思います。
正直、考えると手が震えます。

でも、わたしはもっと怖いと思うことがあります。
それは、貴方が敵機に襲われて死ぬことです。
貴方が戦火に焼かれることです。

それが防げるのなら
わたしは死ぬことなど少しも怖いと思いません。


わたしの命を貴方に差し上げましょう。
わたしの目を貴方に差し上げましょう。
わたしの全てを貴方に差し上げます。
わたしが明後日の朝にあの南の空で死ぬ時にも
わたしは貴方と共にあります。
連れ出す約束を守れなくて申し訳ないけれど
わたしは必ず貴方と共にあります。
きっと。
必ず。



そうして将校は青年を胸にかき抱く。



愛してます。
貴方を愛してます。





では、行って参ります。


将校は敬礼をする。


そして、帰ってきます。
貴方のもとに。


青年も敬礼を返した。


戸籍を持たない、赤紙が来ることのないこの男娼も、敬礼をした。




その日の朝、青年は小高い丘の上に登り、南の空に向かい、敬礼をし続けた。
何時間もそうして立ち尽くしていた。





ほどなく、東京大空襲があった日。

青年は燃え盛る街並みを走った。


何だい、こんなちょっとの空爆なんて。
全然へっちゃらだ。


あの人が敵艦に体当たりしたんだから。
だから飛行機なんてこれっぽっちしか飛んできてやしない。
これっぽっちの飛行機なんて怖くない。


途中で力尽きて倒れている人を揺り起こして叫んだ。


ばかやろう、諦めるな。
生きろ。
生きなきゃ駄目なんだ。
あの人が守ってくれてるのに。
あの人が命をかけて守ってくれたのに。
諦めるな。
生きろ。



あの日に登った小高い丘に駆け上がって、燃え盛る街を見下ろした。



ああ、貴方、見てますか。
俺の目で見てますか。

真っ赤に燃えています。
貴方の守ろうとした街が、国が燃えています。

見てますか。
貴方、俺の目で見ていますか。

俺は生きます。
必ず生きます。
どんな姿になっても、生き続けます。


貴方が守ってくれたから。
貴方がいつでも俺と共にあるから。

貴方と共にこの国を見ていきます。






あの家って確かにボロボロだけど
ねぇ、初夏になると一面梔子の花が咲いて、とてもいい香り。

ねぇ、とても素敵ね。






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