裏庭 (mvt.1-15)


鼻をつく刺激臭で振り返ると、そこにその人は立っていた。

真っ白のワンピースの裾を軽く持ち上げて足を軽く開いて立ち、
そのまま放尿していた。

跳ね返る液体が、彼女の脛の裏を軽く濡らす。


そういえば聴いたことがある。
その家の娘が気狂いであると。
娘と言っても、もう結構な年齢で、一度結婚して戻されたということだ。

何でも、結婚する時にはまともだったが、帰ってきた時には今のような
状態だったらしい。
何が彼女を、こうしてしまったのかは分からない。誰も知らない。
それでも噂好きな近所の人々の間には勝手な憶測が飛び交っている。


その人は美しいというよりは、魅力的な顔立ちをしていた。
少なくとも、常軌を逸した者独特の心の内に燃え盛る業火に燻されたその顔は、
僕の目には非常に魅力的に映った。


僕は呆然と、その人の放尿する様を眺めた。
初夏の日差しで、その人の放つ液体が黄金色にきらきら、きらきら、輝いて見えた。



僕は初めてその人を見た。
彼女の家の裏庭で。



裏庭は人の手が何年も入っていないようで、木々が鬱蒼と生い茂り、
上の葉によって光を遮られた下の幹は腐り落ちるように枯れていた。
その様子は外界を断固として拒絶しているように見えた。


事実、その家は他者の来訪を拒絶していた。

裏庭に向かう木戸の勝手口は針金でぐるぐる巻きにされていたし、
くるりと回して留め金を外すべき取っ手は意図的にもぎとられた跡がある。

もぎ取られた取っ手の残した穴は、外界に向けられた人身御供のように、
ぽっかりと黒い口を無防備に晒していた。


僕はその裏庭へと続く木戸を乗り越えた。
何が僕にそうさせたのかは分からない。

同じ歳か、もう少し下の年齢の子供たちがよくやっていた「ピンポンダッシュ」
なんてことも僕には無縁だったし、ましてや仮に木戸が開いていたとしても、
近所の庭に勝手に入り込むなどということは行儀の悪いことと躾けられていた。


だけれど、僕はその木戸を乗り越えたのだ。
木戸に覆いかぶさるように茂っている木の幹が学生服の布を痛めつけるのを
感じながら、学生服が破れないように、身体をかがめて。



彼女はそこにいた。

僕の気配に気づいたのか、僕が彼女を発見するよりも先にこちらを見ていた。
叫び出しはしないかという不安も、彼女の顔を見れば杞憂に過ぎないことが分かる。

彼女は静かだった。
驚いても、怯えてもいなかった。

ただ僕らが庭に入ってきた雀か蝶々か、そういうものを見るように、
こちらを見ていた。


「こ、こんにちは」
僕は小さな声で彼女に声をかけた。

彼女は答えない。
ただ僕を見る。



彼女は近所の噂で聞くよりも、ずっと若く見えた。
若いというより、少女然としていた。

腰で軽くしぼった半袖の白のワンピースを着てそこに佇んでいる。
後ろでまとめた髪がほつれて、汗ばんだ額や白い首筋にまとわりついていた。



さっと涼しい風が吹いて、彼女は風に向かって顔を上げる。
そうして僕のことは忘れたように、今度は風上をつと、眺めた。

僕は自分が消えてしまうかのような錯覚を覚える。



「あの」
僕は搾り出すように声を出した。
そうしなければ本当に自分が消えてしまう気がしたのだ。

彼女はまたこちらを見る。
そうして僕はここに在ることが出来る。


「あの」
しかし僕は継ぐ言葉を持たなかった。
ただ声を出す為に喉を振動させたに過ぎない。

水面が揺れるのを見たいが為に、無意味に池に小石を投げ込むのと同じだ。
何か標的があるわけでも、次に続く目的があるわけでもない。


「あの」
彼女は僕を見る。
それだけでよかったのだ。


「僕は大石、と言います」
その自己紹介が何の意味を持っていたのだろうか。

僕には分からない。

それでも僕は、僕自身を主張したのだ。



僕は何か話そうと思ったけれど、彼女が返事をしないことももう分かったので、
口から言葉が何も出てこなかった。

彼女は僕の声が気に入ったのか、僕の喋るリズムが合うのか、
僕の次の言葉を待っているような風で、口元をみつめてじっと待つ。

僕は無力に口を何度も開け閉めした。
そして、無力で無意味で無価値な、その喉の鳴動を繰り返した。

「あの」



蝉が啼いていた。

僕の声と、蝉の声と、彼女の視線と、照りつける太陽と。
そうした事物でのみこの世界はまわっている。


僕は声でのみ、この世界に存在することが許された矮小な存在だった。

僕自身はその矮小な存在であることに安らぎを覚えつつも、
消え入ることを恐れるかのように声を発し続けた。



幾度目の無意味な発声を繰り返した時だろう。
少し足を開いて立っていた、その彼女の裸のふくらはぎを、液体が伝い落ちた。

先ほどの立小便の残骸が一筋、彼女の白くて細い肌を撫でていく。
その伝い落ちる先に、軽く色づいた水溜りが見えた。

彼女はそれに気をとられ、ワンピースの裾をまた持ち上げて、微笑んだ。
伝い落ちる一滴の残尿を、さも愛おしそうに眺める。


よりよく見たいと思ったのだろうか、一層裾をたくしあげる。
白い太股があらわになり、そして。


そして、僕は、彼女の手を押さえていた。


「いけない」


驚くでもなく、彼女は不思議そうに僕を見上げた。

そうだ、彼女は中学2年生の僕より、ほんの少し背が低かった。
そして僕よりもはるかに華奢な身体つきをしていた。



「いけない、そんなことをしては」
僕は彼女の不思議そうな顔を眺めて、ため息を漏らすように言った。


僕は、その先を見たくなかったわけではない。
僕はちゃんと、14歳の少年並みに、性に対する好奇心も興味も持ち合わせていた。

だけれど、僕はそうして無防備に、恐らく下着をはいていないであろう下半身を
晒す彼女をこそ、見たくなかったのだ。

先ほど見た、木戸にぽっかりと口を空けていたあの無防備な人身御供。

あのような無残な姿を正視できるほど、僕は成熟した精神を
持ち合わせてはいなかった。
そのくせ、それを無残だと感じるほどには、一人前のつもりでいた。



彼女は変わらず不思議そうな顔をして、大きな瞳で僕をじっと眺めていた。

僕の言葉の意味は全く理解していない様子だったが、手を押さえられたことが
禁止を意味することは理解したようで、その動きは全く止まっていた。

そして、何故スカートをたくしあげようとしていたのかも忘れてしまったように、
僕に手を押さえられるままになっていた。

彼女は僕の手を振り払おうともしなかった。



彼女は呆けたように、スカートを握った手を離した。

僕は自分の学生靴が彼女の作った水溜りに踏み入れていることに気づいた。

それが汚いと思ったわけではない。
ただ。

何といえばいいのだろう。


ただ、踏み入れてはいけない神聖な場所に
足を踏み入れてしまったような気分になったのだ。


敢えて言うが、僕は倒錯した性的趣味の持ち主ではない。
他人の糞尿に対して、性的に興奮することもないし、
その元の持ち主の分身と崇める趣味も持ち合わせてはいない。

大体が、中学2年生にとって、糞尿と言えば、下卑た笑いの対象でしかない
ではないか。


しかし、僕は明らかにうろたえ、彼女の手を離し、後ろへと後ずさった。

その時の僕の気持ちを表現するに足る言葉と言えば、
『畏怖』
ただそれしかないだろう。


「ごめんなさい、踏んでしまって」
口ごもった僕は、頬がかっと熱くなるのを感じた。

そして、そのまま僕はその裏庭を後にした。
振り返ることは出来なかった。



息継ぎもせず、僕はその裏庭から走り去った。

途中、足元が妙に涼しいのに気付いて立ち止まると、
出る時にどこかにひっかけたのか、
学生服のズボンの裾が片方、少しばかり裂けていた。



そして、自分の家の近くまで来たところで、僕は急に不安を覚えた。
彼女にはもう決して会えないのではないかと。

僕が彼女の家の裏口の前を通ったのは今日が初めてではない。
彼女の噂は、僕が小学校の頃から近所で聞かれた。
それなのに、僕は今日、初めて彼女に出会ったのだ。

僕は一体何を恐れて、あの場から逃げ去ったのだろう。
彼女を再び見ることが叶わぬほどに恐れることなど、何があったのだろう。

僕は、途端、衝動的に来た道をとって返そうとした。
まだ彼女があそこにいてくれることを祈りながら。


「秀一郎?」
背後からの声が聞こえた。
母親の声だった。


僕は、聴こえなかったふりをして駆け出せばよかったのだろうと思う。
しかし、僕にはそれは出来なかった。

僕はそういう子供だったのだ。



「生姜がなくて、急いで買いに行ってたのよ」
母親は笑いながら近づいてきた。
「秀一郎が帰ってきたらどうしようと思って、走って行ったの。間に合ってよかった」

僕は、ぎこちなく笑った。

瞬時にして、彼女の世界から現実へと引きずり下ろされたような、
白々しい気分だった。

生姜とはまた、どうしようもない言葉を聴いてしまったものだ。


「どこかに寄っていたの?思ったよりも遅くて助かったけれど」

僕は微笑む。
他にどうすることも出来ず、ただ、それ以上の会話を拒むように。


母と僕とは肩を並べて歩き出す。
夕暮れの初夏の街を。



2階の自室で着替えて階下に行くと、母親が夕食の支度をしていた。
何か手伝うことはあるかと訊ねると、何もないと言われたので、
そのままダイニングの椅子に座り、料理をしている母を横目で見ながら、
テレビをつける。


僕は、何気ない様子を気取って、母に声をかける。
「母さん、秋吉台公園の裏手に、ちょっとおかしい娘がいるって噂の家、
あるでしょう」

母親の手が一瞬止まり、それからまた白々しく動き出す。
「人様の事情に興味を持つのは品のよくないことよ」
と、母親は僕をたしなめた。

僕とても、それは重々分かっていることだったので、黙った。

しばしの沈黙の後、母親の手は再び止まる。
心配そうに僕を眺めて。

「お前、まさかあそこのお嬢さんに興味があるんじゃないでしょうね?」
「ちらっと見たんだ。それで気になって」

笑いながら軽い声を出したつもりでも、所詮は14歳の子供の演技だ。


「・・・わたしもよくは知らないんだけどね」
母親は料理の手を動かしながら、僕を見ずに話しだした。
どうせ隠したところで、どこかで探ると思ったのだろう。



「物静かで、多分特別にお金持ちでもなくて、貧乏でもなくて、
とりわけて妬まれるほどエリートでもなくて、

さりとて家庭内暴力があるわけでもなくて、
近所の噂には何もならないようなおうちだったわ。

あのお嬢さんは・・・確かH女子だったかしら、とにかく中学から
短大まであるようなエスカレーター式の女子高に通っていたわね。

卒業して、しばらくお勤めをして、そしてお嫁に行ったの。
5,6年前のことじゃなかったかしら。


そして、半年もしない内に、戻ってきてるって噂になった。
理由は誰も知らないけれど、とにかく正気ではないってことで、
夜中に叫んだり、家から逃げ出して、ご両親が街中を走りまわっていたり、
とにかくひどい騒ぎを起こしていたって聴いたけど・・・

それもここ1,2年は収まっているみたい。
それしかわたしは知らないわ」


母親は少し料理の手を止めて、僕を真正面から見据えて、訊ねた。
「これがわたしの知っている全部よ。それでいい?」


僕は頷くより他なかった。



次の日の学校で、何を学んだのか、何を話したのか、何をしたのか覚えていない。

一つだけ、テニス部の練習に身が入らずにミスを連発した挙句、
ダブルスのメンバーから外すと言われたことだけは確かだ。


「ひどいよなー、2年をメンバーに入れたくないとしか思えないよ」

パートナーの英二が僕の肩に手を置きながら声をかけてきた。
「気にすることないって、すぐにまたレギュラーに戻れるよ。
俺だって大石と一緒がいいもん」


「メンバーから外されるのは当然のことだろう」
声に振り返ると、手塚が着替えをしていた。

「何だよ、手塚。お前には関係ないだろ」
英二は僕を庇うように手塚の方へ身を乗り出した。

手塚はそんな英二には構わず、僕の目を見た。
分かっているのだろう、と言わんばかりに。

手塚は何も知っているわけではない。
僕が昨日見たものも、僕が昨日したことも。
何も知っているわけではないのだ。

なのに、僕はその目を避けるように俯いた。



慰めるつもりなのだろう、何か食べていこうという英二の誘いを断り、
僕は昨日と同じ道を急いだ。


その家の裏手にまわりこんで、そっと覗き込むと、果たして彼女はそこにいた。
昨日とは違う、白いサマーセーターに紺色の長いスカート姿で、
夕刻の風に顔を向けていた。

僕は、誰も辺りにいないことを確認し、またその木戸を乗り越えた。
脅かさないようにゆっくり、しかし少しだけ音を立てずにはいられなかった。
僕の来訪を、少しでも彼女に早く知らせたいと願い。

彼女は、こちらに顔を向けた。
不思議そうでもなく、警戒する風でもなく、ただこちらに顔を向けた。

彼女にゆっくりと近づき、そして感銘のあまり、僕は彼女の足元に跪く。

「今日もいてくれたの」

彼女はやはり、ただ僕に顔を向けるだけだった。



まるで少女を形どった人形のように、彼女は少しも表情を変えず、僕を見た。

あまりにも無表情な彼女に、僕は急激に自分が恥ずかしくなった。
再び会いたいと思っていたのが、自分だけであったことに、
今更ながら気づいたからだ。

彼女は僕を初めて見る小鳥のように眺めた。
僕のことなど覚えてはいなかったのだ。

「僕を覚えてはいないの」

僕は縋るように彼女を見つめた。


夕刻の風がさっと吹き、彼女の紺色のスカートが揺れて、
足元に跪く僕の頬を撫でた。

柔らかな生地に頬の産毛を弄られるその心地よさに、
僕は目を彼女から背け、ほんの少しの間、閉じた。


次の瞬間、彼女の掌が僕の頬に伸びた。
ふわふわとスカートに留まった蝶に、手を伸ばすように。

彼女の手は、初夏の風のように、とても冷たかった。



>>next mvt.

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