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裏庭 (mvt.16-30)
「捕まえてよ」 僕は彼女を再び見上げて囁いた。 刹那、僕は彼女の手を振り払った。 彼女の白いサマーセーターに日の光が当たって、彼女の乳首が透けて見えたのだ。 下着をつけていない彼女に、無性に腹が立った。 とてつもなく汚れたものを見た気分になった。 そのくせ、僕は立ち上がりながら、横目でそれをもう一度確認したが、 姿勢を変えた僕からは、最早それは見ることが出来なかった。 そうだ、汚れているのは僕なのだ。 どうしてこんな服を彼女に着せるのかと、僕は無性に恐らくその服を着せたであろう 彼女の母親に無意味に腹を立てた。 彼女のことを心配しているようで、その実、僕は自分の下心に腹を立てていた。 「家には誰もいないの」 彼女が返事をしないことは分かっていながら、僕は照れ隠しのついでに、 彼女を離れて家の方へとそっと忍び寄った。 母親の話では、彼女には両親がいるはずだ。 仮に父親が仕事に出ているとしても、彼女の母親が家の中にいる可能性がある。 近所の中学生が、自分の家の庭に忍び込んでいるのはいい気分ではないだろう。 その家に気狂いの娘がいるなら、なおさらのことだ。 ガラス戸越しに、台所が見えた。 電気は灯っておらず、人の気配もない。 隣のガラス戸からは、今度はリビングがうかがえたが、こちらも人の気配がない。 窓ガラズに耳を当てても、人の動く物音ひとつしない。 誰もいないのだろうと安堵のため息を漏らした途端、背中に柔らかく、 暖かいものを感じた。 彼女は、窓ガラスに耳をそばだてる僕と、全く同じことを、僕の背に対してしていた。 「心臓の音?」 僕が喋ると、僕の身体を通して、それも彼女の耳に入るのか。 言葉の意味ではなく、耳から伝わる振動を楽しんでいるように、 更に耳を強く僕の背中に押し当てる。 僕の心臓は高鳴っているだろう。 そしてその速度は、僕がそれを意識するほどに、更に高まっていっているだろう。 彼女の少しばかり湿ったぬくもりを背中に感じていたい気持ちと、 胸の高鳴りを彼女に見過ごされる恐怖との狭間に、僕は自失しそうになる。 これを恋と形容してもいいのだろうか。 そう呼ぶには僕たちの関係は希薄に過ぎるし、 僕の熱情は黒くわだかまりすぎている。 おりのように。 僕たちはそうして相似形を成したまま、 そこに恍惚の時をどのくらい送ったことだろうか。 突然、西日を左の頬に痛く感じた。 十分に部活で日焼けした僕の肌にも痛く感じられるのだから、彼女の白い肌には、 刃にも似た苦痛を与えるのではと、僕はやおら心配になった。 庭を見回すと、そこに縁側が見えたので、僕は振り返り、そちらを指差した。 「向こうに座らない?」 その縁側のちょうど西の方向に、大きな月桂樹の木が生えており、 そこに腰掛けたならば日光にさらされることもないだろうと思った。 彼女は僕の指し示す方向に顔を向け、大きな黒い瞳をこらした。 何を指しているのか、分からない様子で僕を振り返り、顔を見る。 僕の背にぴったりと寄り添ったまま。 抱き寄せてしまいたかった。 誰もどうせ見ていやしなかった。 家には誰もいなかったし、家の面している通りは本当に狭くて、 人も滅多に通らない。 仮に誰かが通ったとしても、鬱蒼と生い茂る木々に阻まれて、 殆ど中は見えないだろう。 僕が初めて彼女を見た、あの僅かな隙間以外からは。 彼女を抱き寄せて、もっと彼女の身体の脹らみをこの身に感じたかった。 どうせ誰も見ていやしない。 そうして、彼女は僕に何をされても、例えここで強姦されても、 外傷さえ残さなければ誰にもばれやしない。 彼女は状況を上手く説明できないだろうし、もしかすると自分が何を されたかも分からないかも知れないじゃないか。 誰にも分かりはしないのだ。 僕はそう瞬間的に打算をめぐらし、 そして次の瞬間、自分の中の悪魔に恐怖し、彼女を突き離した。 彼女はよろめき、僕は慌てて腕を伸ばした。 しかし、彼女は僕の腕を掴みはせず、彼女自身の腕を伸ばすこともなかった。 僕が彼女の腰に腕をまわすのがあと少し遅かったら、 確実にそのまま倒れてしまっていただろう。 「どうして」 僕は彼女の腰を抱えて、荒い息をついた。 「どうして腕を掴まなかったの」 彼女は答えず、驚いた風でもなく、僕をじっと見た。 自分の身に何が起こったのか、興味も関心もなく、 ただ、一度後方へと突き飛ばされ、また引き戻される、 それだけの物理的な運動を、その細い身体に受け止めていた。 彼女は僕の顔を見つめる。 僕の目を見て、鼻を見て、唇を見て、 僕の鼻に細い指を滑らせた。 僕は身じろぎ一つ出来なかった。 彼女は何度も、何度も、僕に腰を抱かれたまま、滑り台を何回も滑るように、 僕の鼻に指を沿わせた。 彼女は楽しんでいた。 その指を、さながら己が全存在であるかのように 他の部位を放棄したかのように 彼女は僕の鼻柱という滑り台に遊んだ。 僕はそれを止めなければならないと強く感じつつも、それが出来ずにうろたえた。 いけない。 そうであってはいけない。 そこまで己に不感知であってはいけない。 過ぎたる不感知は、それは一つの罪悪だ。 僕は被害者じみた苛立ちと、悲しさと、そして彼女に対する執着と憎しみを感じ、 そのいわれのなさに驚き、戸惑い、 そして僕は完膚なきまでに疲弊したのだ。 僕は苛立ちこそすれ、怒りはしなかった。 僕は憎みこそすれ、怒りは出来なかった。 僕は自分自身を被害者であると、はっきり認識しつつも、 それに正当な理屈づけをすることが出来なかったからだ。 そしてまた、彼女に対する肉欲をも含んだ執着を拭い去ることが出来ずにいた。 鼻柱に彼女の優しい指先を感じながらそっと瞼を閉じると、 彼女の流した黄金色の液体が、瞼の裏にさざめいた。 瞳を開き、僕は彼女の手を捕らえ、身体を起こす。 彼女の四肢は再び彼女に帰属し始める。 とてもたやすいことだ。 そうじゃないか。 僕はそれからも彼女の元を訪れた。 僕が学校から帰る頃は、ちょうど彼女の母親が家を開けている時間帯のようで、 彼女はその時間になると夕涼みを兼ねて、彼女の母親が帰ってくるまでの間、 庭に出ているのが習慣のようだった。 その間、わずかに30分ほどが、僕が彼女に会うことが出来る唯一の時間だった。 僕は彼女の元を訪れて何をしたわけでもない。 何を話したわけでもない。 ただ振り向いた彼女を眺めて、そのまま無為に時を過ごすこともしばしばだった。 縁側に並んで座って、持っているペットボトルの水で、 彼女の小さな足を冷やすだけのこともあった。 「そうだ」 僕は何を思ったのだろう。 ある日、僕は学生鞄から現代国語の教科書を出した。 「この前読んだ話がとてもよかったんだ。読んでみない?」 僕は持っていた本を彼女に朗読して聞かせた。 彼女はその意味がわかってはいなくとも、僕の言葉の調べに耳を傾けて微笑んだ。 彼女は何も聞いているわけでもなかったけれど、少なくとも人間の姿かたちを していたし、僕は水槽の魚に話すよりは空しい気分にはならないはずだったのだけど それでも、僕は敢えて自分のことを話しはしなかった。 僕は、それから、毎日のように彼女に教科書を読んで聞かせた。 教科書が尽きてからは、本を選んで持っていくようになった。 それは僕たちの、いや、僕の新しい一つの習慣になった。 僕が僕自身について語れることはそう多くない。 僕はほんの14歳の少年で、人生経験もそれほどない。 僕はそのことを、彼女に何か話そうとして気づいた。 それまで僕は、とても恥ずかしいことだが、自分が多少なりとも一人前に 色々なことを感じたり、思ったり、体験してきているつもりでいたのだ。 僕が僕自身の話を長々としようとしても、それは僕を取り巻く環境だったり、 僕の家族の話だったり、とにかくも、僕自身の話ではないことばかりになってしまう。 僕が僕だけの話をしようとするならば、どうしても内的な要素に偏るだろう。 それを彼女に話すだけの勇気は僕にはなかった。 僕は自己愛の塊だったので、自分の内的な話をして、それが彼女独特の全くの 無反応で受け止められたらショックを受けると予期していたからなのかも知れない。 その頃の僕はというと、テニスに勉強に、そこそこ忙しい日々を送っていた。 どれもうまくやりたかった僕は、そのどれにも多くの時間と努力を 惜しみなく注いでいた。 そして、上手くやりおおせていたのではないかと思う。 僕にとって、「出来の悪い子」と思われることは恐怖だったし、 また親を失望させたくもなかった。 僕は実際、あまりにもうまくやっていたので、今更「出来ない」とか 「わからない」などと言えない、 言うなれば後に退けない状況にわが身を置いていたのも事実だ。 誰も僕に「よく出来なければいけない」と言うことはなかった。 僕は誰が自分にそう言う前から全てを「上手くやって」きたからだ。 まだほんの14歳の少年であったにも係わらず、僕は時々どこかに 逃げてしまいたくなる時があった。 わずか14年の人生で積み上げてきたものに呪いの言葉を投げつけたく なることもあった。 お前のせいだ、お前のせいで俺は今こんなに苦しいんだ。 そういったこと。 僕は彼女のそばにいる、その時だけはあらゆるしがらみから抜け出せる気がした。 僕はそこらに吹く風とか、そこらの土くれとか、そうした何者でもない存在になれると。 だけど、今にして思えば、僕はやはり僕を消し去ることはし得なかったのだ。 僕が本の朗読をやめなかったのがその顕れだった。 誰にもかまわれず、何の期待もされない存在になりたい。 誰かに僕がここに存在することを認めてもらいたい。 その矛盾した二つの思念が僕を捕らえていた。 その両立しない二つが両立しうるかのような夢を見ていた。 彼女によって、それが両立するかのように思い込んでいた。 その日は雨が降っていた。 夏休みにも係らず学生服で登校し、練習に励んでいた僕らは戸惑った。 天気予報では一日中晴れということで、誰一人として傘を 持参していなかったからだ。 すぐに止むだろうから全員しばらく部室にいろ、という部長の言葉を無視して僕は駆け出した。 彼女と会える時間はごく限られたものだったし、雨が止むのを悠長に待っては いられなかった。 早く彼女の元へと行かなければ、僕たちの時間は刻一刻と失われてしまうだろう。 僕はその思いだけで、土砂降りの中、駆け出した。 何回か脚を前に繰り出しただけで、僕は全身びしょぬれになってしまったが、 そんなことは僕にとって構うものではなかった。 後ろ手に閉めた部室の扉の向こうで、僕を制止する声が聞こえたけれども、 聞こえないふりをした。 他人に対しても、僕に対しても、聞こえなかったふりをした。 水しぶきをあげて、僕は走った。 水を跳ね上げるたびに、彼女の元に近づいていっている、その実感が 僕の胸を高鳴らせる。 だからこそ、僕はわざと余計に水しぶきをあげた。 避けられるはずの水溜りの真ん中に、敢えて足を踏み入れた。 すれ違う人たちが迷惑そうな顔を僕に向けても、僕は平気だった。 彼女に今日は何を読んで聞かせよう。 雨音と僕の声の重なりを、彼女はどんな顔で聞くだろう。 彼女の微笑む横顔は、降りしきる雨の糸にどれほど美しく映えるだろう。 僕は、はたと足を止めた。 それまでのうきうきとした気持ちは、僕の鼻梁を流れ落ちる雨だれのように、 流れ去ってしまった。 彼女は外に待っていないかも知れないのだ。 雨が降っているこんな日に、外に出てきてはいないかも知れないのだ。 僕の足は、遂に完全に止まってしまった。 びしょぬれの自分がとてつもなくみすぼらしく思えた。 >>next mvt. <<back to Junkie-Junk <<back to Top Page |