THOSE DAYS/ chilly agony _ eiji


目を覚ますと、日は既に昇ってしまっていた。
仕事の前に銭湯に行く時間は失われていることを俺は知る。

隣を見ると、大石が俺の腕の中ですうすうと寝息を立てていた。
泣きつかれた子供が、いつしか眠ってしまった時のような、疲れた、脱力した顔で。

そっと布団から抜け出したつもりだったが、大石は敏感に反応して、ぱちっと目を開ける。
黒い瞳がクルクルとしばし動き、薄いカーテンの向こうから斜めに厳しく差し込む朝日を捉えた。

「いい天気だよ」
横たわったままの彼の黒髪を撫でる。
「行ってくるね」
そして立ち上がって、部屋の反対側に投げ出したボロいブルゾンを拾う。

大石は身体が辛いのだろうか、かすかな呻き声と共に身を起こす。

「英二、行っちゃうのか」
「銭湯、一緒に行けないからさ。なるべく空いてる時間に行けよ」

慌てて立ち上がって、一瞬足を引きずって、俺に駆け寄る。
「俺も一緒に行く」
「ダメだよ、寝てな」
「嫌だ、一緒に行く」

布団の枕元に置かれた目覚まし時計を見ると、あまり時間の余裕はなかった。
既にアラーム機能は壊れて失われているものの、俺たちに時を告げる唯一のものだ。
これがなければ、俺たちはもう原始時代のように、太陽でしか時刻を知ることが出来なくなる。

言い争っている時間はないと俺は判断して、靴を履く。
大石もブーツに足を突っ込む。
「大石」
たしなめて横を見ると、泣き出しそうな顔で、ブーツの金具を留めていた。
「いやだ」

まるで子供みたいだ。
こんな顔は滅多に見せない。

「大石、眠らないとダメだよ、身体がもたない」
玄関のドアを開けて、俺は大石の肩を抱く。

「眠ってどうするんだよ」
大石は俺の手を振り払う。
彼はまだ片方しか靴を履けていない。
「眠って身体を休めて、それで、また客を取りに行くのかよ」

俺は言葉に詰った。
今、そんなことを言う大石にいささか腹を立てた。

俺は大石に売春を強制しているわけではない。
俺は心底、大石が男と寝るのは嫌だと思っている。
だけれど、大石は俺と再会するまで続けていたその仕事を、俺と一緒になってからもやめなかったし、
俺もやめろとか、嫌だとか、口に出したことはない。

俺たちの関係は、こんな風に後戻りできないところまで来ても、まだ曖昧だ。

こんなに愛していても、まだ曖昧だ。


「ずるいよ、大石。こんな時に」

返事に窮した俺は、少しばかりきつい言い方をする。
何しろ時間もないし、俺はもう行かなければいけない。
しかし大石を連れて行くわけにはいかなかった。

大石は俯いて、まだ履いていない方の靴から手を離す。
「ごめん」
そして既に履いている靴の金具を外して、乱暴に脱ぐ。
「ごめん、英二」

「行ってくるよ」
軽く背伸びをして、俯いたままの彼の額にキスをする。
「仕事を貰えなかったら1時間で帰るからさ」
「・・・うん」

俺は走って家を飛び出した。
いつもの公園へと、走った。
息が切れても、走った。


今すぐに帰って、大石と話をしたかった。
もう売春をやめたいのか、と聞きたかった。
俺はやめて欲しいよ、と伝えたかった。
俺だけのお前になってよ、と言いたかった。
そうして大石を抱きたかった。
大石が甘い声で俺を呼んで、俺の腕の中で震えて達するのを見たかった。


だけど、そういう時に限って、業者は俺を一番に指差した。



その日の仕事はえらく楽だったが、残念ながら拘束時間はえらく長かった。
俺は国道沿いの工事現場で、赤い棒切れを振り回す係だった。


頭がぼうっとする。
何回か、無謀な運転をする車に轢かれかけては、何とか意識を保った。

考えていたのは大石のこと。

大石はもう売春をやめてくれるのだろうか、と、俺は昨晩と今朝の大石の表情を反芻して、そう感じた。
朝、腹立たしく思ったにも関わらず、今思い返すと俺の胸は甘く締め付けられる。


大石は淫らだと思う。
セックスが好きだと口には出さないが、彼はセックスがなくては生きていけない種類の
生き物なのだろうと思う。
さながら中毒患者のようだ。
そういう意味で、彼にとって売春は天職なのかも知れない。

俺は自分の腕の中にいる時には大石の淫乱さを嬉しく思い、愛おしく思い、
自分の腕の中にいない時には、それを不安に思い、厭わしく思っている。

俺は彼を愛し、同時に憎んでもいた。


俺に貫かれて甘い声を漏らす大石を見て、俺だけで満足できるだろうかという不安もあった。
浮気をされるくらいなら売春をするほうが、まだ俺の気が済むのでは、と、
情けないことだが、俺は自分を傷つけたくないとも願っていたのだ。

どこかで大石を疑っていた。
大石が何度となく俺を愛していると言っても、俺は疑いを払拭できずにいた。


俺だけじゃないんだろ
俺じゃなくてもいいんだろ

だってお前、誰とでも寝るじゃんか


口に出して言ったことはないが、その言葉は俺の喉元まで何度もせりあがって来た。
何度も、何度も。

その言葉を口に出さないようにするだけで、俺はすっかり疲弊してしまった。
再会してから1年。
俺が会社を辞めて、一緒に住むようになってから半年。
短いようで長かった。


あのまま会社に居つづけてもよかったのかも知れない。
俺は追われたわけではなく、自ら出て行った。

中堅メーカーの入社3年目では、大石を呼び寄せて2人で暮らすほどの給料は貰えなかった。
しかもサラリーマンには残業もあるし、出張もある。
毎日大石の顔を見られるわけでもなかった。
しかも、あの街に行っても大石に会えないことも多かったので、
せいぜい会って話が出来るのは週に1回か2回だった。

生活のリズムが違いすぎたのだ。
大石は俺が起きている時間にはどこかで眠り、俺が会社の為に眠らなくてはいけない時間に
あの街でうろついていた。
住むところもなく、携帯電話を持っているわけでもない大石を捕まえるのは至難の業だった。

そして、大石はあの街から出ようとはしなかった。
それだけは頑として譲らず、俺の家に、と言っても、決して来なかった。


あの時期、サラリーマンの俺と夜に徘徊する大石をつなぎとめてくれたのは、
前に俺が大石を探しに行った時に手を貸してくれたオカマだった。
名前はサチコ。
本名は恥ずかしくてとてもじゃないけれども教えられない、と言う。

「秀ちゃん、今、うちにいるわよ」と電話にメッセージを残し、ベッドを貸してくれもした。

俺たちはサチコのベッドで何度抱き合ったことか。
心は乙女らしいサチコのピンクのベッドカバーの上で喘ぐ大石の顔を何度見たことか。
あのベッドの上で、喧嘩を何度したことか。


会社を辞めて大石とこの街で一緒に住む、と言うと、大石は怒った。
今まで見たこともないくらいに怒った。
二度と会わない、とまで言い出して、俺は途方に暮れた。


結局それをとりなしてくれたのもサチコだった。
俺たちの手を結んで、離れたらダメなのだと諭してくれた。

「愛し合ってるなら離れちゃダメよ。
離れていても愛があれば、と言う人もいるけれど、そんなの一時のこと。
いずれ一緒になれるなら耐えられても、ずっとは続かない」

サチコだけが泣いていた。
過去に何かあったのかとも思ったが、俺は聞けなかった。


そうして俺はあの街に行った。
大石は困ったような顔をしていたけれど、あの家で一緒に寝た最初の夜、
俺の腕の中で独り言のように囁いた。
「こんなに幸せでいいのかな」

もっと幸せにしてやりたい。
もっと幸せになれるはずだ。

だけど、最初の頃のあの希望は、今見失いかけている。




工事現場の辺りは少し薄暗くなってきた。
俺は手にした赤い棒のスイッチを入れて、点灯した。




楽なのを言い訳のように、俺の勤務時間は恐ろしく長かった。
休憩時間も短く、明らかに労働基準法違反だろうと思うが、いつだって足元を見て
過酷な労働を押し付けてくる業者はいるものだ。
こちらにしても、文句の言えた義理ではない。
やっと公園でバンから降ろされた時には、既に夜の9時をまわっていた。

足腰がガタガタだった。
何しろ数回の休憩だけしかなく、15時間以上も立たされていたのだ。
昼に弁当が出たことと、今も帰りに日当と合わせて弁当を貰えたことだけが救いだ。
「腹減ったんで2つ貰えますか」と図々しく言ってみたところ、「若いのはよく食うからな」と、
2つ手渡してくれた。

帰って食事を作る必要もないし、買い物に行く必要もない。
それだけが有難かった。


弁当の入ったビニール袋が腕に重かった。
俺はそれを抱えて、半ばヤケクソのように歩き出した。

身体は電車に乗りたがったけれど、歩くことにした。

急いで帰っても大石はもう仕事に出てしまっただろう。
誰もいない部屋で、大石が他の男に抱かれている姿を想像しながら歯軋りを繰り返すよりも、
こうして国道沿いを歩いている方がマシだった。

雑踏が俺の空想をかき乱してくれる。
頭に浮かぶ大石のいやらしい顔を、車のヘッドライトが消してくれる。
頭に浮かぶ大石の甘い声を、クラクションが上書きしてくれる。



街についた頃には、更に夜は更けていた。

手にした弁当のことをすっかり忘れていたが、手元を見ると、それはあった。
元から冷えているそれは、長時間歩いたことで、更にひんやりしていた。

「たまには、いいかな」
俺は呟くと、コンビニを目で探した。
インスタントでもいいから、スープでも買おうと思ったのだ。

大石に一品だけでも暖かいものを食わせてやりたかった。
ポケットの小銭を探ると、一つくらいは買えそうな金額が見つかった。
俺は頷いて、コンビニの明かりを求めて歩く。


そして、路地に蹲っている大石を見つけた。