THOSE DAYS/ cycling _ eiji


早朝の公園まで自転車を走らせる。

どこの誰の自転車か知らない。
走って行こうと思ったのだが、道路の片隅にこの自転車を見つけたのだ。

鍵をかけていない方が悪い。
どうせ公園について、そこに停めておけば、俺が帰ってくる頃には
また他の奴が見つけて、乗ってどこかに捨てているんだろう。
鍵のかかっていない自転車なんてそんなものだ。

公園につくと、自転車から降りた。

スタンドも出さずに手を離すと、支えもないその自転車は、がちゃん、と倒れた。

振り返って、その自転車のあまりの無残な姿に、一瞬足を止めた。
鍵のついていない、鑑識シールも貼っていない、哀れな自転車。

違う、彼はそうではない。

俺の恋人は、あの自転車と同じではない。
同じであるはずがない。

乗り捨てた自転車を見ないようにして、俺は公園の中に足を運んだ。

どうか、次はもっとマシな奴に拾われろよ、と心の中で呟く。



この公園には、日雇い労働者を集めに来る業者がいる。
だから、仕事が欲しい奴もここに集まる。
俺のオヤジが俺くらいの歳の頃もそうだったし、これからだって変わらないだろう。
この公園がある限り、この需要と供給の構図はここに息づいていくのだ。

業者は大きなバンでやってきて、適当に体格がよさそうで、適当に働きそうな奴を
適当に指差して、適当な人数だけ連れて行く。

業者は名乗りもしないし、俺たちも名乗りはしない。
匿名性の需要と供給、そこにあるのはそれだけの関係だ。
無難に働きさえすれば、日が暮れる頃には日当が現金で受け取れる。

うるさいことを言わないのと即日で金が受け取れるので、集まる労働者の数は少なくない。
中には毎日のようにここに来ている者もいる。
競争率は低くないのだ。


俺は周囲の男たちを見回し、自分の細い足を眺め下ろす。
高校までテニスで鍛えていたが、ダブルスのパートナーと違う大学に入ってからは
テニスをお遊び程度にしかプレイしなくなり、すっかりあの頃についていた筋肉は落ちてしまった。

熱くなれなかったのだ。
大学ではシングルスをと思って体育会に入部したが、1年で限界は来た。
パートナーを失った俺は、同時にテニスに対する情熱も失ってしまった。

社会人になってからは、いよいよ、テニスの全国大会に出たことは
ただの合コン用のネタにしかならなかった。

次第にテニスを嫌悪するようになり、ラケットを握ることすらしなくなった。


今なら握ってもいいかな、と思う。
右の手のひらを眺めると、マメが出来ている。
あの頃も、こんな風に手のひらの皮膚が硬くなっていた。
パートナーと、互いのそれを触りあって笑っていた。

今でも、そのパートナーは俺のマメを触る。
しかし、笑うことはない。
いとおしそうに、それを撫で摩り、こすり、口付けをする。


彼の唇を感じ、手のひらを左手の親指でこすり、顔を上げた。

もうすぐバンが来る。

俺は仕事にありつかなければならない。

俺の脳裏に瞬間閃いたのは、
あの自転車と
俺の恋人、大石秀一郎の柔らかな舌。




何故だか知らない。


知りたくもない。





「ご苦労さん、また頼むよ」
現場の監督から封筒を手渡され、バンを下ろされた頃には、すっかり日が暮れていた。

その封筒をポケットの奥にねじ込みながら、朝と逆の方向に進み、公園を出る。
ふと思い出して、そこを見ると、乗り捨てた自転車は既になかった。

俺はポケットに手をつっこみ、背中を丸めて歩き出す。
家は、2駅南に下ったところにある大きな駅が最寄り駅だ。
電車に乗ることも一瞬考えたが、勿体無いのでやはり歩くことにした。
今日はまだそれほど寒くない。
これからもっと寒くなる。



「ただいま」
玄関のドアを開けると、大石はもういなかった。
仕事に出たのだろうか。

俺は帰りに寄ったスーパーで買ってきた食べ物を袋から出す。
封筒の中は、それを買ってもまだ3日は二人で食べられるだけの金額が残っていた。
上出来だ。今日は稼ぎが多かった。

上半分だけの押入れから手提げ金庫を出して、その中に残りの金を入れる。
俺と大石が、互いの稼ぎを入れておく金庫だ。

この前俺が入れた時から札が増えているのを感じるけれど、いくら増えたかは確認しない。

これがいくらになったら、一体何をどうしようというのだろう。
俺たちには明確なビジョンがない。

わざと音を立てて金庫を閉める。



大きな駅から歩いて15分、俺たちの住んでいるアパートは、昭和の香りのする古い建物だ。
昭和と言うよりも、むしろ戦後かもしれない。
2階建てのオンボロアパート。
保証人もなく借りられるアパートはそう多くない。
あっても非常に家賃が高い。

宿もなかった大石と一緒にこの街で住むことに決めた時に、散々探し回ってここを見つけた。
どこでもよかった、一緒にいられさえすれば。


6畳一間の狭いアパートだ。
畳は日に焼けて毛羽立っており、そのまま横になると身体がこすれて痛い。
こんな狭いところに、一組の布団を敷いて眠るのだ。
俺が前に使っていた布団で、一組しか持っていなかったからだ。

身体を寄せ合って眠る。
俺にはそれが一日の中で一番幸せな時間だ。
そして一番胸かきむしられる時間でもある。




備え付けの小さなガスコンロの置かれた流しに向かう。
狭い空間で食材を切り刻むのにも慣れた。

「野菜たくさん食べろよー」
誰にともなく呟く。

食事はあっと言う間に出来上がった。
鍋の数からしても2品が限界だ。

地べたに置かれたボロい炊飯器がふつふつと湯気を上げ始める。
もう蓋が限界なのか、最近生煮えのようになってきた。

がんばれ、と声をかけ、ふたをちょん、とつつく。


がんばれ、がんばれ

俺も、がんばれ




いつの間にか布団に寝転がってうとうとと居眠りをしていた。
大石が階段を昇る音で目が覚めた。

古いアパートの階段は、大石が2階の俺たちの部屋に上がってくるまでに
カンカンという音を必ず立てる。
きっちり11回。
そして数歩の間を置いて、ドアが開かれるのを、俺は待つ。


「おかえり」
「ああ、ただいま、英二」

大石は微笑む。
「ごめんな、起こしちゃったか」

俺は布団から身を起こす。
「ちょっとうとうとしてただけ」
「ちゃんと寝てろよ、疲れただろ」

目をこすって、窓の外を見る。
まだあたりは真っ暗だ。
「何時?」
「3時くらいかな」

ブーツを無造作に脱いで、大石は部屋の中に入ってくる。
「美味しい匂いがするな」
ジャケットを脱ぎながら、笑う。

「うん、メシ作ってあるよ。食べるでしょ?」
「うん」
「食い終わったらもう開くだろうし、銭湯行こうよ」
「そうだな」

俺に見えないような角度で、彼は尻ポケットから金を出して、押入れの方へと進む。
今日は客が取れたのだ、と俺はそれで知る。


大石は、今日も俺の知らない男と寝てきた。


「何人と寝た?」
聞きたくないくせに、どうしても口を止められない。

大石は答えない。
横顔を俺に向けたまま、変わらず曖昧な微笑を見せる。

「気持ちよかったりした?」
やはり彼は答えない。

カサカサと手提げ金庫に金をしまって、それを元のところに戻す。



大石は売春しながら、時折感じているのを俺は知っている。
見も知らない男の腕に抱かれて、粗末に扱われて、屈辱的なはずなのに。
なのに、それがたまらなく気持ちがいい時があるのだと、一度俺に教えてくれた。

嫉妬に狂った俺にひどくいたぶられてから、彼はそういうことを言わなくなったけれども。


「メシにしようよ」
俺は布団から立ち上がって、コンロに向かう。

オンボロのガスコンロは、マッチの助けがなければ火が点かない。
この街では、マッチはいくらでも手に入る。



後ろから抱きしめられた。
首筋に生暖かくて湿ったものが這う。

「大石、メシ」
「あとでいいから」

大石が俺の身体を求める時は、彼が客とセックスして満足できなかった時なのだと思う。
ハッキリとは言わないけれど、恐らく。

中途半端に貪られて火照った身体を持て余しているのだ。

「英二」
ちゅぷちゅぷと音を立てて、俺の首筋を咥えるように舐める。
大石の右手は俺の股間に伸び、左手はシャツをくぐって腹、胸を撫でる。

「大石、メシ食わないと」
言いながらも、俺の手はガスを消す。

大石は自分の股間を俺の尻にぐりぐりと押し当てて、耳もとで甘いため息をつく。

「えいじ」

口元からタバコの匂いがした。
貰いタバコしか吸わない大石の口元から匂うタバコは、彼を抱いた男の吸っていたものだ。
今日は、メンソール系の洋モク。
マルボロか、ラッキーか。

俺は見えない相手に嫉妬する。
そいつの胸ポケットからラッキーの円が透けて見える。

大石がタバコを吸う姿を、俺は数回しか見たことがない。
俺はそれが大嫌いだ。

口に咥えたタバコに手を伸ばして、人差し指と中指の間にすっと挟みこんで
タバコを口から離しながら、すっと煙を肺に吸い込んで
灰を落とし、紫煙をふうっと吐き出す。

その一連の仕草が妙に似合っているところが、とても嫌いだ。
彼の長い指に、どんなアクセサリーよりもタバコがハマっているところが大嫌いだ。
裸の彼が、ラブホテルの安っぽいソファに足を組んで座って、
少し図々しそうな態度でタバコをふかしている姿を想像すると、むかむかする。

そして俺は少し手荒に大石を抱きしめる。
だけど言わない。
タバコくさいよ、とは絶対に言わない。
言ってやるものか。

薄くなった布団に俺を横たえて、大石は俺と目を合わせる。
黒目がちで少したれた目。
その下に少しだけくまが出来ているのを、親指で擦る。

大石は俺に何度も口付ける。
口付けながら、俺の身体をまさぐる。

「英二の身体、舐めてもいい?」
「いいよ」

客にするよりも、丁寧にして欲しいと願う。

殆どはだけてしまった俺の服を、綺麗に脱がせて、大石はそっと乳首にキスをする。
大事に。
とても大事に。



「ふ・・・っ、あ・・・お、いし・・」


「大石、俺にもさせてよ」
彼は顔を上げない。
ぺちゃぺちゃと音を立てて、俺の太ももの内側に舌を這わせる。

大石は丹念に俺の全身を愛撫しながら、俺の屹立したペニスには愛撫どころか、
触ろうともしない。
ひたすら、俺の身体を柔らかな舌で愛撫する。

「大石・・・あ・・・ねえ」
臍に舌をねじ込む彼の肩に手をかけると、ふっと視線をこちらに向け、その手に自分の手を絡める。

指の股から、俺の股間まで、長い長い道のりを電流が駆け抜ける。
「英二」
絡めた手を口元に引き寄せて、彼はその合わさったところに口付けをする。
「英二、好きだ」

俺の睾丸からアナルの入り口までも舐めまわしながら、彼は徐々に興奮した風に鼻を鳴らしだす。
シャツを着たまま、ジーンズを履いたまま、彼は俺の股に鼻を埋めて腰をかすかに廻して喘ぐ。

天井を指しつつ、先から透明な粘液を根元の陰毛深くまで垂らした俺のペニスは、
変わらず徹底的に無視されている。
「大石・・・もうダメだよ、あ、も・・・ね・・・え・・・おおいし」

中に入りたかった。
固いジーンズの中で蠕動を繰り返しているであろう、大石のアナルに。
その暖かい内壁を思うと、俺のペニスは前後に奮え、先から迸る汁はいよいよ沁み出す。

「ふ・・・ん・・・え、じ・・・」
大石は俺の股間の陰毛を口に含んで、軽く引っ張る。
そこを濡らす粘液を吸いとるように、ちゅう、と音を立てる。

何回か、それを繰り返して、彼は俺のペニスを眺める。
嬉しそうに微笑む。
愛おしそうに撫でる。
そして口を開ける。

彼がそれを緩やかに口に含んだ瞬間、俺のペニスは彼の上あごを幾度も叩き上げながら、
ねっとりとした暖かさの中に、精液をびゅくびゅくと放出した。

「ああああ!大石!大石!!」
ペニスの律動と同じく、俺は布団の上で何度も身体をうねらせる。
寄る辺を求めて彼の方に手を伸ばすと、彼はそれをぎゅっと握る。
「んんん、ん!んん・・・!!」
隙間なく俺ペニスを口で包みながら、彼も嬌声を上げ、腰を大きくくねらせた。



「ごめんな、大石」
荒い息で、ぐったり仰向けになったまま謝る俺の赤い髪に、大石はそっとキスをする。
「なんかもー、全然我慢できなかった」

「俺も気持ちよかったよ」
大石は俺の頬にも、薄絹のようなキスをする。

「だって大石、全然・・・脱いでもないじゃん」
「でもよかった」
大石は微笑み、布団にぱふんと倒れ込んで、俺の腕の中にもぐりこむ。
「もう腰、ガタガタだもん」

大石は高校に入ってからもヒョロヒョロとよく伸びた。
俺が踏ん張って173センチまで身長を伸ばした頃には、彼はもう179センチまで伸びていた。
何とか追いつこうと頑張ったにも関わらず、その差は中学生の頃よりも広がった。
こうして俺の腕にもぐりこむと、大石の足は布団からはみだしてしまう。

大石の顔をあげさせて、口付けをする。
出来るだけ優しく。

大石の口からタバコの匂いはすっかり消えていた。


「英二、夜が明けたらまた公園に行くのか」
「うん、雨が降ってなければ」
「・・・俺も行こうかな」

その声の悲痛さに驚きながらも、俺は敢えて茶化すように答える。
大石の頭をぐっと抱きながら。

「お前みたいにヒョロヒョロしてちゃ、仕事貰えないよ」
「でも身長はあるし、若いし・・・無理かな」
「肉体労働で鍛えたオッサン連中をなめたらダメよ」
「そうかな・・・」

黒髪をゆっくり擦りながら、ゆっくりと尋ねる。
なるべく落ち着いた声を出そうと努力した。
「なんかヤなことでもあった?」

大石は俺の裸の胸に腕をまわす。
彼のシャツが俺のむき出しの乳首を擦る。
「何もないけど・・・」

しばしの沈黙。
俺は大石が何を言おうとしているのか、何を感じているのか、俺なりに頭を巡らす。
自分にとって都合のいいことばかり考えそうになるのを、必死で食い止めようとする。
大石がもう一度口を開くまで、百万年の葛藤の時を過ごしたように思う。

「何もないよ。ごめん」
大石は身を起こす。

俺の迷いは解消されることなく、長い執行猶予の時がまた訪れる。

「英二、メシ作ってくれたんだろ。温めればいいか?」
そうして、コンロの方へと向かって行ってしまう。

追いかけて抱きしめて、「何だよ」と問い詰めたい衝動にかられたが、
その口から俺の願う通りではない言葉が発せられることの恐怖に、
俺は身じろぎも出来ずにいた。

そうして俺は曖昧に頷く。
「吹きこぼさないようにな」



俺たちは愛し合っている。
はずなのに。