THOSE DAYS/ glittering moon _ kunimitsu


「英二も行っちゃったよ」

「どこにだ」
「アッチの世界」
不二は不思議な微笑を口元に浮かべる。

「会社も辞めちゃってさ、一緒に暮らすって」
「どうやって生活している」
「英二は日雇い労務者みたいな感じみたいだけど。
大石は相変わらず。
どっちにしても、安定した収入を見込めない者同士って感じかな」

不二の表情はやはり理解しがたい。
二人のことを蔑むようにも見え、また優しく思いを馳せているようにも見え、
そしてまた羨望の業火に身を焼かれているようにも見える。

アルカイック、というのか。
俺の心次第でどうにでも見える不思議な微笑み。

今、彼の微笑を理解しがたく感じるのは、俺自身が自分の心情を正しく
整理できていないということだ。

「手塚は知ってた?あの二人が青学時代、そういう関係だったって」
「いや」
今の即答は不自然ではなかっただろうか。

俺は不安の為に余計なことを訊ねる。
答えが返ってこないことが予期されているのに。
「不二はどうなんだ」
案の定、応えはない。

俺は不安なのか。
何が不安なのだ。

それ以上何を訊ねていいのか分からない。
しかし訊ねたいことは山のようにある。
要は、どうやって自然に話を聞きだすかというだけの問題だ。
俺にはその術がない。

昔からそうだ。
一番知りたいことに限って訊ねることが出来ない。
俺はドアをノックするのが誰よりも下手で、下手だという事実の前に、
ノックすることをためらい、ためらっている内にノックの仕方を忘れてしまった。
ドアが向こう側から開けられるのを、ただ待つだけだ。

子供じゃあるまいし、と俺は首を横に振った。

「少し酔った?疲れてるでしょ。そろそろ・・・」
不二は伝票を手に立ち上がりかける。
俺はそうして今日もノックをすることが出来ない。

店の入り口で、入る時に渡したコートがクロークから出されるのを
茫洋と突っ立って待っていると、不二は呟いた。

「バカだよね」
泣き笑いのような顔で。

「アイシテルなんて、いつかは消えてしまうのに。
あとに何も残らないのにさ」

もしかすると彼はノックされるのを待っていたのかも知れない。
それなのに、俺はどうしていつでも立ち竦むことしか出来ないのだろう。

俺は怠惰な無為によって、数知れないものを失っているように思う。
そうだ、あの頃も、きっとそうだった。

「じゃあ、また」
店を出た不二は、先ほどの呟きを忘れてくれ、というかのような明るい笑顔を見せた。
「日本にはしばらくいるんでしょう?」
「2週間の予定だ」
「もう一度くらい会えるかな」
「ああ」


「もう一軒付き合わないか」
「俺の泊まっているホテルで飲みなおさないか」
そう言えばよかったと思う時には、大抵その時は既に失われている。
しこうして、俺がその言葉を思いついた時には不二の背中は既に見えなくなっていた。


「国光、あんたって子は」
母親からの伝言をフロントで受け取り、部屋に入ってから家に電話をかけると、
早速受話器から説教が溢れ出す。
「どうしてうちに泊まらないの。うちもそう都心に遠いってこともないのに」
「すみません」
「たった一人の息子だっていうのに。父さんだって楽しみにしていたのよ」
「日曜には顔を見せに戻ります」
「おじいちゃんももう歳だし、もっと顔を見せてあげなきゃ」


「記者が押しかけてきたりして、家に迷惑をかけたくないから」
「突然の帰国だったし、いきなり帰って静かな生活を乱したくなかったから」
そう言えばよかったのだ。
そう思う時には電話は既に切れている。


いつでもそうだ。
俺はいつでもそうだ。
あの時もそうだ。



去年、俺が一時帰国した時に聞いた街の名前を口の中で反芻する。
『ハッテン場ってどこ』
『行ってみようかな』

菊丸がその街にその晩、行くことは分かっていた。
誰の目から見ても明らかだった。

言えばよかったのだ。
「俺も一緒に行こう」
そう言えばよかったのだ。
そうしたら、こんな惨めな思いをしなかったものを。


俺が今泊まっているホテルは、彼らのいる街とは山手線で対角線上のところにある。
部屋は南向きの窓しかついておらず、俺はその方角を眺めることすら許されていない。

冷蔵庫からビールを出して、窓際の小さなテーブルと、
その前に置かれたソファに腰掛ける。
オフィスビルが立ち並ぶこの街の灯りは24時間消えることがない。
部屋の電気を消し、その灯りを眺めながら冷蔵庫から出した
ビールのプルタブを起こす。

彼らのいる街の灯りも24時間消えることがないだろう。
ここで見られる白くて冷たい蛍光灯とは異質の、しかし24時間消えない灯り。
この街とあの街とには、距離以上の隔たりがある。

どうして飲まなかったのだ、不二と。
飲んだ後にもう一度一人で飲みなおすくらいなら。

どうして。

答えは自分で分かっている。
そうだ、俺は余計なことを言いたくなかったのだ。




「キャンセル、ですか」
朝日に照らされながら、フロントの男は渋面を作る。
「しかし残りの全日程となると・・・」
「出来ないということですか」
「いえ、そうではないのですが・・・
当方に何か至らない点がありましたら、申し付けて頂ければ・・・」
「こちらに不満はありません」
「では何か・・・」

全く快適なホテルだ。
値段だけのことはある、実に快適なホテルだ。
天井を高く取り、東側に大きく窓を取り、透明な朝日がフロントに差し込んでいる。
外にはオフィスに出勤するビジネスマンが歩いている。
全く整然とした、後ろめたいことの一つもない街だ。
そうだ、この街だ。
敢えて理由をつけるなら、この街なのだ。

「今日からこのホテルに宿泊しているので、何か連絡があればそちらに回してください」
「はい、かしこまりました」
俺の差し出した紙に書かれたホテルの名前を見て、
フロントの男はほっとした表情を浮かべた。
それは、あの街にある、ここと同じ系列のホテルだったからだ。


タクシーに荷物を積み込み、その街に向かう。
連絡済みだった次のホテルの正面に乗りつけたタクシーから降りると、支配人がお出迎えだ。
「これはこれは、手塚様」
ポーターも走り寄って来て、トランクに積んだ荷物を部屋まで運び入れる。

「とりあえず1週間こちらにお世話になろうかと思っているんですが」
「はい、お電話で承っております」
「日程を延ばす場合には?」
「問題ございません。その日にフロントに申し付けて頂ければ
お部屋はそのままお使い下さって結構です」
「有難う」

支配人は50歳過ぎか。
俺はまだ25歳だ。
半分ほどの年齢の人間に頭を下げるのは、さぞかし屈辱的なのではないだろうか。
俺ならば耐えられそうにない苦渋だ。
しかし、いずれは俺にもそのお鉢は回ってくる。

プロテニスプレイヤーとしてのピークはまだだと自分では思っている。
今は上り坂の途中にある。
まだ上手くなれる。まだ強くなれる。
しかし上りきってしまえば必ず下る時はやってくる。
その時に、俺は今よりも確実に歳を取り、確実にプライドを増長させているはずだ。
後ろから忍び寄る影に怯えずにいられるだろうか。

「越前、か。どう思う、大石」

「はい?」
先に立って部屋に案内をしてくれていた支配人が振り返る。
「・・・いや、何でもない」

いつの間に口に出していたのだろう。
もう10年も前に口にした言葉だ。

覚えているか、大石。



「こちらです」
支配人はドアを押さえて俺を部屋に導きいれた。
「最上階のお部屋です。東側の窓のあるお部屋をとのことでしたので」
「ああ、有難う」

だだっ広い部屋だ。
一人で泊まるにはあまりにも広い。

「こちらがルームキーとなっておりまして、このフロアにはエレベーターの
キーホールに鍵を差し込まないと、上がってこれないようになっております。
セキュリティ面は万全かと」
「ああ」
「では、ごゆっくり。御用の際には何なりとお申し付け下さい」

支配人が話しているのを、背中越しに聞いた。
俺は窓に歩み寄り、眼下を見下ろす。

あの辺りか。
この街に詳しくはないが、恐らくそうだ。

「眺望は最高でございましょう」
「ああ」
「少し・・・何と言いましょうか、けばけばしい一角が見えるのですが」
「構わない。俺が希望したことだ」
「ええ、しかし東側ですので、朝は清々しゅうございますよ」
「そうだな」


支配人が出て行くと、俺は窓際のスツールに腰を下ろす。
疲れた。
昨日の夕方に東京に着き、それからここに座るまでにまだ1日と経っていない。
時間数にして、寝ていた時間、いやベッドに居た時間というべきか、
その時間を差し引くと12時間というところだ。
それなのに、俺はもう何年も旅をしてきたかのような疲労感に襲われる。

窓の外には、昼間の顔をした街が広がっている。
慌しく歩き回るビジネスマン、うかうかとポケットに手を突っ込んで歩き回る学生たち、
劇場の前でお気に入りの俳優が出る舞台の開場を待つ主婦たち。
ここから見えるはずもないが、俺が日本を出た数年前からきっとあの様子は変わっていない。
ここから遥か下に、きっとあの頃と同じ光景が広がっているだろう。

出かけるにはあまりにも明るすぎる。
そう思い、カーテンを閉め、隙間を少しだけ作る。
カバーのかかったままのベッドに横になって、俺はあの頃のことを思い返す。



俺にとってあの頃、とは青学にいた時期を指す。
胸の中でいつまでもキラキラ光彩を放つあの時期。
青学に入る前の俺は、ませた嫌な子供だった。
青学でも同じようにませて嫌な子供だっただろうが、あそこには仲間がいた。
俺がませていようが、嫌味だろうが、少しばかり人よりも抜きん出た才能があろうが、
少しばかりコミュニケーション能力に劣っていようが、無愛想だろうが、
全てを内包してくれる仲間がいた。

今ではどうだろう。
俺も多少は社会の波にもまれ、作りたくもない笑顔を作ってみせたり、
言いたくもないお追従を言ってみせたりするようになった。
そして俺の言葉はいつでもまっすぐに捉えられることはない。
ありもしない言外の意味を探られたり、言葉が足りないことによって誤解を受けたり。
しかし、こちらも必ずしも本当のことばかり言っているわけでもないので、
そんな嘘つきの受ける待遇としては当たり前なのだ。

本当の友達など出来るはずがない。
顔見知りは嫌になるほど増えていくが、友達は増えない。
理解しあえる立場にいる者たちは同じパイを取り合う敵でもあり、
手放しで絶賛してくれる者たちは俺を偶像化しているだけだ。

「疲れてるんじゃないか、少し休めよ」
そう言うのが、同じテニスプレイヤーならば、ただその間に自分が
先に行こうとしているだけだし、
テニスプレイヤーではない人はそんなことは言わない。
俺がどれだけ消耗し、疲れ切っているかを正確に理解し、
そう言ってくれる者などいはしないのだ。
少なくともあの頃より後に出会った者たちは。

俺のコーチすらもそうは言わないだろう。
俺が怪我をしているわけでもないのに休んでいる間、彼の生活はどうなる。
もし彼がそれを俺に言うならば、それは彼が他にコーチするプレイヤーを見つけて、
俺とはもうおさらばだという時しかない。

しかし、大石。
お前がそう言ってくれたならば、俺は信じられる。
お前が俺を正確に理解し、俺の為に、ただ俺自身の為に
そう言ってくれているのだと心の底から信じられる。
俺は休まずにいられるだろう。
お前がそう言ってくれるだけで、俺はやっと本当に安堵し、
肩の力を抜いて前に進めるだろう。

あの頃の仲間は皆そうだ。
不二、乾、菊丸、河村。
お前らはいつでも信じられる。
電話をしたり手紙を書くようなベタベタした関係ではないし、
1年に1度も会えないこともあるかないかでも、お前たちのことはずっと信じていられる。

あの頃に一緒に過ごした、あの青学のテニスコートが懐かしい。
あの頃、きっと俺は一番テニスを楽しんでいた。
何よりもテニスが好きでいられた。
それはあの頃の仲間たちがいたからだ。
誰が毎日壁打ちを繰り返して、テニスを好きでいられるものか。


お前たちが懐かしい。
あの頃が懐かしい。
たった1日でもいい。
あの頃に帰りたい。



いつの間にか寝てしまっていたようで、目を開けるとカーテンの隙間から
薄明かりが差し込んでいた。
眼鏡を外すこともせず、シーツも毛布もかけることなく、深く寝ていたようだ。
部屋は適温に保たれ、寒さを感じることもなかった。

起き上がって髪を手櫛で整えながら窓に歩み寄ると、ほのかに冷気を感じる。
ベッドサイドを振り返って時計を見やると、もう夕方近かった。

そろそろか。
そろそろ街の様子が変わる。

街が夜の顔を見せる。

俺はコートを羽織って、部屋を後にした。