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「菊丸くん、ダメ!」 大石のおばさんが叫んだ。 「ダメなの!秀一郎はもう…ダメなの…」 泣き崩れる。 「誰の顔を見ても分からないの。一つも反応しないの。わたしの声も届かないの…」 顔を両手で覆って、くぐもった声で俺に話す。 俺はそのまま、大石のおばさんに手を貸すでもなく、立ち尽くして呆然と聞いていた。 病院のリノリウムの床に膝をついて、大石の母親は話し続けた。 その声が。 冷たい廊下に響く。 「秀一郎は、大人しくしてるけど、何を言っても何をしても反応しないの。 目は開けてるのよ。でもダメなの。前をぼーっと見てるだけで、目も動かさないの。 もうダメなの。あの子はもうダメなの」 「俺、大石に会ってくる」 「菊丸くん、ダメよ」 おばさんが俺の手にすがりつく。 「お願い。見ないでやって。あの子のあんな姿、見ないでやって」 俺は冷たくその手をふりほどく。 いつか、大石が俺にしたように。 「俺、会います」 病院の冷たいベッドの上に、大石は座ってた。 後ろにクッションをあてがわれて、前を見て座ってた。 その横顔は、相変わらずとても綺麗だったけど、ガラス玉のような目をしていたので、 まるで人形のようにも見えた。 「秀一郎」 母親の声に反応はない。 聞こえなかったかのように、前を向いている。 「秀一郎、具合はどう?」 やはりまるで反応はない。 息はしてるみたいで、胸が少しだけ上下している。 その他はどこも動かない。瞬きも殆どしていない。 本当に人形のようだった。 少し乱れた髪の毛が、余計に人形っぽく見えた。 「秀一郎…」 声を震わせる母親を制して、俺は大石のほうに進んだ。 「おーいし、俺」 一歩、一歩踏み出す。 「俺だよ、大石。来ちゃった」 でもこちらは向かない。 俺は大石のところまでゆっくり、ゆっくり進んだ。 駆け寄ったり、乱暴に扱ったりしたら壊れてしまいそうだったから。 「俺だよ、わかる?」 大石の膝元におかれた手に、自分の手を重ねて、 ベッドの横に大石と向き合うようにして腰掛ける。 いつも俺に向けられていた優しい目が、俺を見て優しく細められていた目が、 俺を見てくれないのがとても悲しかった。 俺の髪を優しくくすぐっていた手が、俺の頬を優しく撫でていた手が、 俺の手の下で冷たく動かないでいるのがとても悲しかった。 両端を鮮やかに上げて俺の名を呼んだ唇が、俺の髪に埋めてキスを繰り返していた唇が、 まっすぐ一文字に引かれているのがとても悲しかった。 「おーいし?」 俺は大石の目を覗きこむ。 いっつもこうすると、「ん?」って微笑み返してくれてたけど、今は何も動かない。 大石のガラス玉のような目は、俺を通り越して、どこか遠くのほうを見ている。 俺の声も届かない。 「菊丸くん、もう…」 大石のおばさんが俺に囁くような声をかける。 「おばさん、大石と二人にさせて?」 俺はおばさんに言った。 「大石、ちょっと困ってるだけかもしんない。大石、わかってるのかもしんない。 だから、少し二人だけにして?」 そんなことないって肌で分かってたけど。 大石のおばさんが泣きながら出ていったところで、俺は大石に話し掛ける。 「何だよ、おーいし。俺のこと置いて、どこ行ってるんだよ」 大石の手に置いた手と反対の手で、大石の頬に触れる。 冷たくて、すべすべで、人の肌じゃないみたいだ。 「ずっと一緒にいようって言ったじゃんよ」 声が震える。 「ずっと傍にいるって言ったじゃんかよ。俺のこと、ずっと守るって言ったじゃんかよ。 大石、どーやって守るんだよ、そんなんでさぁ」 涙がぽとぽと落ちてくる。 一人でいる時よりも、ずっと一人ぽっちであるように感じた。 大石と離れている時よりも、もっと離れているように感じた。 「おーいし」 俺はありったけの力を振り絞って、声を出す。 ともすれば掠れて、出てこなくなりそうな声を引きずり出す。 大石に聞こえるように。 大石に響くように。 「おーいし」 俺は大石の手にすがりついて泣いた。 とにかく泣いた。わんわん泣いた。 悲しくて、悔しくて、寂しくて、やるせなくて。 とにかくありったけの涙を絞り出すように泣いた。 そんな俺を、大石はやっぱり見ていなかった。 「ショックだったでしょ、菊丸くん。ごめんなさいね」 大石のおばさんは、俺を病院の出口まで見送ってくれながら言った。 「先生も、原因が何だか分からないって言うし、わたしたちもどうしていいのか分からなくて。 情けないわね、一緒に暮らしてた親だって言うのに」 ふ、と寂しそうに笑う。 この顔、大石とよく似た顔。 大石もちょっと前、時々こうして笑ってた。寂しそうに。悲しそうに。 ねぇ、大石、何がそんなに悲しかったの。俺といたのに? 「バカだな、英二」 大石の言葉が頭に浮かぶ。 「俺のこと、スキだなんてさ」 多分、あれが始まりだったのだ。 何で泣いてたの、大石? 俺に抱かれて泣いてたね。 どうしてだったの? 俺、何かしてあげられなかったの? 「おばさん、やっぱ、俺ダメだ」 「菊丸くん?」 俺は出口まであと数メートルのところで立ち止まった。 「俺、大石のそばにいたい」 俺はきびすを返して、大石の病室まで走った。 後ろで大石のおばさんが俺の名を呼んでたけど、そんなの無視して走った。 大事なことはひとつだけだと思ったから。 ドアを乱暴に開ける。 それでも大石はこっちを向かないし、微動だにしないけど。 そんなことおかまいなしに、俺は大石の傍に走り寄る。 そして、大石の頭を胸に抱え込む。 ぎゅうって抱きしめて、俺は言う。 「アイシテル」 悲しい話を読んでも泣きません 悲しい映画を見ても泣きません でも君の腕と、優しい胸と、シーツの間で 俺は泣きます いやおうなく 俺は泣きます どうかどうか、神様 俺は祈ったことを思い出す。 どうか神様 この人を助けてください どうか神様 あの時、俺は思ったはず。 この人がいれば、あとは何も要らないって。 どうして俺は背を向けようとしたのか。 どうして俺は傷ついたってことばっか言うのか。 そんなの全然大したことじゃないのに。 貴方を失うことに比べれば。 だからオネガイです、神様。 大石を返してください。 俺のところに返してください。 他には何も要りません。 他のどこにも帰れなくなっても構いません。 俺のところに返してください。 ぎゅうって大石を抱きしめた、その肩口が。 少し冷たいのはナゼ? 俺は身体を離した。 大石は、無表情のままだったけど、ガラス玉の目から涙が落ちていた。 ぼろぼろ流れ落ちて、彼の冷たい頬をつたう。 渇いた唇が俺の名を呼んだ。 「え…じ」 |