anchor/10


「菊丸くん、ダメ!」
大石のおばさんが叫んだ。
「ダメなの!秀一郎はもう…ダメなの…」
泣き崩れる。
「誰の顔を見ても分からないの。一つも反応しないの。わたしの声も届かないの…」
顔を両手で覆って、くぐもった声で俺に話す。
俺はそのまま、大石のおばさんに手を貸すでもなく、立ち尽くして呆然と聞いていた。
病院のリノリウムの床に膝をついて、大石の母親は話し続けた。
その声が。
冷たい廊下に響く。
「秀一郎は、大人しくしてるけど、何を言っても何をしても反応しないの。
目は開けてるのよ。でもダメなの。前をぼーっと見てるだけで、目も動かさないの。
もうダメなの。あの子はもうダメなの」
「俺、大石に会ってくる」
「菊丸くん、ダメよ」
おばさんが俺の手にすがりつく。
「お願い。見ないでやって。あの子のあんな姿、見ないでやって」
俺は冷たくその手をふりほどく。
いつか、大石が俺にしたように。
「俺、会います」


病院の冷たいベッドの上に、大石は座ってた。
後ろにクッションをあてがわれて、前を見て座ってた。
その横顔は、相変わらずとても綺麗だったけど、ガラス玉のような目をしていたので、
まるで人形のようにも見えた。
「秀一郎」
母親の声に反応はない。
聞こえなかったかのように、前を向いている。
「秀一郎、具合はどう?」
やはりまるで反応はない。
息はしてるみたいで、胸が少しだけ上下している。
その他はどこも動かない。瞬きも殆どしていない。
本当に人形のようだった。
少し乱れた髪の毛が、余計に人形っぽく見えた。
「秀一郎…」
声を震わせる母親を制して、俺は大石のほうに進んだ。
「おーいし、俺」
一歩、一歩踏み出す。
「俺だよ、大石。来ちゃった」
でもこちらは向かない。
俺は大石のところまでゆっくり、ゆっくり進んだ。
駆け寄ったり、乱暴に扱ったりしたら壊れてしまいそうだったから。
「俺だよ、わかる?」
大石の膝元におかれた手に、自分の手を重ねて、
ベッドの横に大石と向き合うようにして腰掛ける。


いつも俺に向けられていた優しい目が、俺を見て優しく細められていた目が、
俺を見てくれないのがとても悲しかった。
俺の髪を優しくくすぐっていた手が、俺の頬を優しく撫でていた手が、
俺の手の下で冷たく動かないでいるのがとても悲しかった。
両端を鮮やかに上げて俺の名を呼んだ唇が、俺の髪に埋めてキスを繰り返していた唇が、
まっすぐ一文字に引かれているのがとても悲しかった。
「おーいし?」
俺は大石の目を覗きこむ。
いっつもこうすると、「ん?」って微笑み返してくれてたけど、今は何も動かない。
大石のガラス玉のような目は、俺を通り越して、どこか遠くのほうを見ている。
俺の声も届かない。
「菊丸くん、もう…」
大石のおばさんが俺に囁くような声をかける。
「おばさん、大石と二人にさせて?」
俺はおばさんに言った。
「大石、ちょっと困ってるだけかもしんない。大石、わかってるのかもしんない。
だから、少し二人だけにして?」
そんなことないって肌で分かってたけど。


大石のおばさんが泣きながら出ていったところで、俺は大石に話し掛ける。
「何だよ、おーいし。俺のこと置いて、どこ行ってるんだよ」
大石の手に置いた手と反対の手で、大石の頬に触れる。
冷たくて、すべすべで、人の肌じゃないみたいだ。
「ずっと一緒にいようって言ったじゃんよ」
声が震える。
「ずっと傍にいるって言ったじゃんかよ。俺のこと、ずっと守るって言ったじゃんかよ。
大石、どーやって守るんだよ、そんなんでさぁ」
涙がぽとぽと落ちてくる。
一人でいる時よりも、ずっと一人ぽっちであるように感じた。
大石と離れている時よりも、もっと離れているように感じた。
「おーいし」
俺はありったけの力を振り絞って、声を出す。
ともすれば掠れて、出てこなくなりそうな声を引きずり出す。
大石に聞こえるように。
大石に響くように。
「おーいし」
俺は大石の手にすがりついて泣いた。
とにかく泣いた。わんわん泣いた。
悲しくて、悔しくて、寂しくて、やるせなくて。
とにかくありったけの涙を絞り出すように泣いた。
そんな俺を、大石はやっぱり見ていなかった。


「ショックだったでしょ、菊丸くん。ごめんなさいね」
大石のおばさんは、俺を病院の出口まで見送ってくれながら言った。
「先生も、原因が何だか分からないって言うし、わたしたちもどうしていいのか分からなくて。
情けないわね、一緒に暮らしてた親だって言うのに」
ふ、と寂しそうに笑う。
この顔、大石とよく似た顔。
大石もちょっと前、時々こうして笑ってた。寂しそうに。悲しそうに。
ねぇ、大石、何がそんなに悲しかったの。俺といたのに?


「バカだな、英二」
大石の言葉が頭に浮かぶ。
「俺のこと、スキだなんてさ」
多分、あれが始まりだったのだ。


何で泣いてたの、大石?
俺に抱かれて泣いてたね。
どうしてだったの?
俺、何かしてあげられなかったの?


「おばさん、やっぱ、俺ダメだ」
「菊丸くん?」
俺は出口まであと数メートルのところで立ち止まった。
「俺、大石のそばにいたい」
俺はきびすを返して、大石の病室まで走った。
後ろで大石のおばさんが俺の名を呼んでたけど、そんなの無視して走った。
大事なことはひとつだけだと思ったから。


ドアを乱暴に開ける。
それでも大石はこっちを向かないし、微動だにしないけど。
そんなことおかまいなしに、俺は大石の傍に走り寄る。
そして、大石の頭を胸に抱え込む。
ぎゅうって抱きしめて、俺は言う。
「アイシテル」



悲しい話を読んでも泣きません
悲しい映画を見ても泣きません
でも君の腕と、優しい胸と、シーツの間で
俺は泣きます
いやおうなく
俺は泣きます



どうかどうか、神様
俺は祈ったことを思い出す。
どうか神様
この人を助けてください
どうか神様

あの時、俺は思ったはず。
この人がいれば、あとは何も要らないって。
どうして俺は背を向けようとしたのか。
どうして俺は傷ついたってことばっか言うのか。
そんなの全然大したことじゃないのに。
貴方を失うことに比べれば。


だからオネガイです、神様。
大石を返してください。
俺のところに返してください。
他には何も要りません。
他のどこにも帰れなくなっても構いません。
俺のところに返してください。


ぎゅうって大石を抱きしめた、その肩口が。
少し冷たいのはナゼ?


俺は身体を離した。
大石は、無表情のままだったけど、ガラス玉の目から涙が落ちていた。
ぼろぼろ流れ落ちて、彼の冷たい頬をつたう。
渇いた唇が俺の名を呼んだ。
「え…じ」