HENRY/2


「久し振りぃ」
扉を開けるなり、その飲み屋は喧騒で俺たちを呑み込んだ。
奥の一角に懐かしい顔を見つけて、俺たちは手を上げる。

引き戸になっている扉を押さえて、大石は俺を先に店内に入れ、
自分はあとからきちんと扉を閉めて入る。

騒々しい店内の中でもその奥の一角はとても賑やかだった。
既に出来上がっている者もいて、真っ赤な顔で、しかし嬉しそうにこちらを見て手を上げる。

まだ一滴の酒も口にしてない、上着を脱いでもいない俺たちも
その空気にあっという間に酔う。
俺たちを酔わせるのは、酒場独特の空気でもあり、
また過去に一瞬さかのぼったかのような幻覚。
時折見る顔も勿論、久しぶりの顔もある。

今日は青学テニス部の集会なのだ。
中学で辞めた者、高校に入ってもテニスを続けた者もいるが、
幹事を務めたのが俺たちの学年ということで、知っている顔が殆どだ。

「なんだ、変わらず揃っての登場かよ、黄金ペア」
「お前ら一緒に暮らしてるんだって?」

遅れてやってきた俺たちにあちこちから野次が飛ぶ。

体育会系の常か、既にテニスをやめており、違う大学に通っているとはいえ、
副部長時代の大石の指導を受けた中には立ち上がって会釈をする者もいる。

その中に、俺は旧友の姿を見つけて手をあげる。
変わらずクールでハンサムな細面の同期は、ニヤニヤしながら声をかけてくる。
「相変わらずベタついてるの」

彼の言葉は何故かざわめきを潜り抜け、万人の耳に届くという奇妙な特質を持つ。
これは彼ゆえなのか。
天才、不二周助は、相変わらずのオーラをまとっていた。


そのためか。
一瞬俺の顔がこわばったのを見逃さなかった者、数名。


俺はさぞかし泣きそうな顔を見せたことだろう。
肩が一瞬縦に律動したことだろう。
その肩に大石は手をかける。
そして少しだけ俺の身体を引き寄せる。
まるで庇護するかのように。

「ああ、相変わらずだよ」
大石の声が俺の耳の上をかすめ、不二の方向へと飛んでいく。
それで、俺はやっと笑う。
大石も笑う。
不二も笑う。
皆笑った。

そうしてその場の緊張はほぐされた。


「手塚、久し振りだな。どうだ、アメリカの大学は」
大石はふっと身を放して、手塚の方へと進み、彼の横に腰掛けて話し始めた。
ちょっと遠慮していた者たちも、大石の見せる柔和な笑顔につられて、
手塚の話を聞きに傍に集まってゆく。


俺はちょっとあたりを見渡してから、不二や桃のいるテーブルに開きを見つけて座った。

「久し振りじゃない。どうしてるの」
「相変わらずって感じ。不二も?」
そんな人並みのどうでもいいような挨拶代わりの決まり文句を交わす。

「うん、あ、桃は違うんだよねー」
不二は流し目を桃にくれる。
桃は赤くなって叫ぶ。
「もー、茶化さないで下さいよ!折角その話は終わったと思ったのに!」
そして、ジョッキのビールを照れ隠しなのか、ぐいっと飲む。
どん、と置く。

オトコノコというのはいつでも微妙な照れ隠しをするものだ。
もうこの年では22も21も変わらないというのに、俺はやっぱり先輩面をしたくなる。
そしてこの後輩を可愛いと思いたくなるのだ。


「なになに、桃、どうしたの」
桃はジョッキから手を離さずに、その泡が薄くなって露出した水面から目を離さずに、
少しだけぶっきらぼうに答える。
「結婚するんすよ」

「えー!まだ若いのに!?」
「でしょでしょ、学生結婚だよ。すごいよね」
不二にとっては一度聴いた話でも、こういう話は何度でもしたいらしく、
桃を小突いて先を促す。

桃は不承不承、それでもウソをつかずに胸の内をさらけ出す。
ぼそぼそと、彼らしくないほどの小さな声で、だけれど彼らしいストレートな表現をする。
「うーん、でもこれ以上の女は出ねーなって・・・」

「わお、すっごい思い込み」
「まぁ結婚なんて思い込みだからねー」

桃はまたジョッキをぐいっと傾けて、中を空にする。
そしてまたどん、と置く。
「何ですか、もー!」

不二はさりげなく後ろの店員をつかまえて、同じものをと注文している。
桃は既にヤケクソのようで、そうしたことに気づく気配もなく俺に向き直る。
目がすわっており、少し怖い。
「英二先輩だって、もう一緒に暮らしてて
結婚してるみたいなもんじゃないですか」
一応の反撃に出ているつもりらしい。

「このヒトたちは特別」
向き直って、不二は笑う。
「もう何年?バカみたいに長いよね」
「うるへー」

俺も自分のことになると桃と同じだ。
ビールを傾けて、乱暴にジョッキを置く。

そうして、俺たちはお互いの弱みを見つけることに熱中しだす。
女の話、恥ずかしい思い出の話。
大体中学高校なんて恥をかくためだけに生きているようなものだから、
その時期に一緒にいた者同士のネタは尽きない。

またこの不二周助という男は、それすらも軽やかに潜り抜けてみせるのだけれど。

酒がなくなるとすぐに次が出てきて、またそれを恥隠しの為に飲み干し、
そして攻撃に転じる。
その繰り返しをしているうちに、桃も俺も相当ヘベレケになってきた。

ちらりと向こうのテーブルを見ると、大石は白い顔で酒を飲みながら話をしていた。
彼は外で飲む時には酔うことを知らず、あの涼しい顔を崩すことはない。
気が張っているからだろうと自分では言う。
確かにそれはあるのかも知れない。

家で風呂上りにビールを二人で飲むときなどは、少し目のふちを赤くして、
やたらと俺にキスをする。
嬉しそうに笑って、デレデレとキスをする。

だけれど、やはりセックスはない。
愛情はうずたかく、性欲は他のところに。
それが俺たちの生活。


桃は俺の視線に気づいて、青春時代の出来事を、また一つ思い出したようだった。
いや、もとから思い出していたのだろう。
ただ、酔いの力を借りなければ、言えないことだったのかもしれない。

「今だから言えるんですけれど」
そしてまたビールを一口。
自分は酒を飲んでいて、酔っているのだというアピールを無意識に。

「一回忘れ物して遅い時間に部室に入ったら
二人がいて…せっせと励んでて・・・あれは困りました」

俺はぐっと詰まった。
まさかここで具体的な話が出るとは思わなかったのだ。

恋人同士であるということや、愛し合ってるということは言っても
身体の関係があるということは、暗黙の了解で口に出すことも、
誰かに言われることもなかったからだ。
これは俺たちが男同士だからということではなく、男女の恋人であっても同じではないか。

「ああ、僕もそういうことあった。
まったくどうしようもない人たちだよね」


そうだったっけ
そうだったよな
高校までは普通にしてたんだ

大学に入ったあたりから狂ってきた
なにもかも


俺はその話題によって感じた気恥ずかしさ以上に、
今自分のいる境遇が無性に情けなくなった。

いたたまれなくなり、早く家に帰りたいと願った。
酒も酒場の空気も、最早俺を愉快にはしてくれなかった。




次の日、大石が帰ってくるのを俺は待って、彼をダイニングに座らせた。
話がある、と。

俺の顔はさぞかし緊張していただろう。
大石はそれをちゃんと感じて、彼も緊張したのか椅子に浅く腰掛けた。
しかし、ただその重苦しい雰囲気、何か終焉に向かっているような雰囲気から
走って逃げ出したい気持ちがそうさせたのかも知れない。
彼は所在なげに浅く下ろした腰を何度も浮かせたり、ずらせたり、
そんな風にオドオドしていた。

俺は自分で座らせておきながらも、口ごもった。
彼のその落ち着きのない態度に苛つきながらも。


「大石」
「うん、どうした」

言葉を発したことで、彼の腰の動きは止まる。
そして椅子から立ち上がった俺の動きを目で追う。
肩口に視線を感じながらも、俺は自分のカバンに近づき、そこから取り出したものを
テーブルの上に乗せる。

「これ」
俺が持ってきたのはロープだった。
縄ではなく、ピンク色の、ロープ。

大石はとんでもなく嫌な声を出した。
それは俺が今まで聴いたことがないほどに嫌な声だった。
「どうしたんだ、そんなもの持って」

「俺にして?」
「馬鹿言うな」

大石の白くて滑らかな額に皺がよる。
俺はこの皺をみると、吐き気がする。

「なぁ、分かってくれよ。
俺はそういうことをお前にしたくないんだよ」
大石は勤めて冷静にふるまおうとしていた。
先ほどの嫌な声をごまかすように。

「どうしてだよ」
「痛いぞ」
「痛くってもいい」
「よくない」

大石は立ち上がって、テーブルをまわって俺の方に歩いてくる。
テーブルの上に横たわるピンク色の細長い物体から目を離さずに
立ち尽くした俺の肩に手をまわす。

「なぁ、いいか。
こういうのは、痛いと思う人間にとってはただ痛いだけなんだ。
嫌悪感を持つ人は世の中に多いし、お前がそうであっても
仕方がないし、当り前だと思う。
だから無理矢理俺の性癖に合わせる必要なんてない」

もう見るなと言わんばかりに、テーブルの上に向けられた俺の顔を
自分の肩に押し付ける。
大石もそれからは目を逸らしていることだろう。

「足りないのなら俺も頑張るから
だから、こういうのはやめよう、な?」


「だって、だって嫌なんだもん」


唐突に、俺はこの縄を買う時の自分のみじめさを思い出した。

今まで横目で見てきたアダルトグッズの店。
その黄色いアーケードを潜り抜けて、妙にカラフルなビーズののれんをかきわけて
中に入ったときのその息苦しさ。

意外にも整然と分類されている棚の中からSMの文字を見つけ出し、
そこに歩み寄る時の足の重さ。

そしてその中から自分の思うものを見つけ出して、複数種類の中から選び出す、
その時間の恥ずかしさ。

単純な縄や色とりどりのロープに目をくれて、
そして忍び寄る店員。

あれこれとさりげない様子で、誰もいない店内で囁くように呟かれるアドバイス。

聞いているような聞いていないような俺。

だけど、そんな羞恥のひと時の中にありながらも、最も下品で扇情的な色はどれかと思う俺。

全てに耐えられなかった。
俺の猥雑な存在にすら耐えられなかった。
だけど俺は、このピンクのロープを選んだ。

俺の肌に一番映えるであろう色彩に、俺は手を伸ばした。
粗野で下品な色。
俺はこのロープを手にする瞬間、誰よりも下品で、淫らで、侮蔑に値する人間であったと思う。

そして見えないようにか、茶色の紙袋に入れられた上から更に丁寧に
包装されたそれを、俺はカバンに押し込みながら店から出た。

二度とここには来るまい、前も通るまいと思った。

そのきまずさ、気恥ずかしさが俺の背中を押す。


「大石が他の人とするのも
俺と一緒にイかないのも
嫌なんだもん」

俺は最早ヤケクソのように、大石の優しい腕を振り払って叫んだ。
涙声だった。
実際、俺は泣いていたのだから。


だけど、大石は俺の激情など構わないような静かな声を出す。
彼は感情を押し殺すと決めたが最後、そうしたふるまいを必ず最後まで突き通す。
「英二、お前がそれが嫌で我慢できないなら・・・」

彼はいつでも理性的で、正しくて。
だからその先の言葉は明らかだった。
まさしく、第三者が俺たちの関係を見たら、そうアドバイスするだろう言葉。

俺は先手を打つ必要に迫られた。
その言葉が耳に届く前に。
「いやだ、それは一番嫌だ!!」

大石はもう冷めてしまったのだろうか、彼は俺の叫びには無関係に続ける。
「なぁ、もう俺たち続けていけないよ。
別れよう」

「いやだよ、そんなの」

自ら振り払っておきながら、何とみじめなことか。
俺は大石の腕をつかんで、すがりつく。
彼の身体をゆすって、横を向いてしまった彼の滑らかな頬を凝視し、叫ぶ。

「ねぇ、もう俺のこと嫌いになった?
俺なんかより、もっと身体の合う人のほうがいい?」

大石は身体をねじって、俺の腕をふりほどく。
「そんなこと言ってないじゃないか。
でももうやめよう、こんなの」

大石の頬は滑らかで、人間の皮膚ではないようだ。
毛穴ひとつ俺の方を見てはくれない。
彼の思いは秘匿され、彼の人間性もそのままに隠されていた。

「もっと幸せにしてくれる奴がいる。
何もかも合って、何もかも満足できる相手がいる。
俺みたいな男と一緒にいちゃダメだ」

俺はわっと泣き出した。
今までも泣いていたのだけれど、それはまた前のものとは違う。
俺は大石の分まで泣かなければならなかった。
大石は最早感情のないロウ人形のように見えたからだ。
そのつややかな黒髪はさながら絹糸のようで
その滑らかな肌はプラスチックのようだった。

だからこそ、俺は大声を上げて泣いた。



やがて、大石の白い頬に、一つのくぼみが浮かんだ。
それは彼が歯を食いしばった証。
彼はゆるやかにこちらを向いた。

「ごめんな、もっと早くに言えばよかった。
だけど、離したくなかったんだ。
ごめん
勝手だよな」


俺は彼を人間に戻せたのだろうか?


「勝手だよ」
俺の伸ばした手を、彼はしっかりと掴む。
彼の手はいつでも暖かくて大きい。
そして、その掌は汗ばんでいた。
それが俺に安堵感を与えた。

「だから俺から離れるなんて許さない」
俺は彼の胸に頬を寄せる。
彼は俺の肩にそっと手をかけた。

やがて、彼の腕は俺を強く抱きしめた。
それは俺たちの別れ話は水に流されたことを俺は知る。
けれど、それはやがてまたやってくるだろう。
俺はことを完遂する必要性をまた感じた。





俺は彼を楽しませているのか、苦しませているのか分からない。
彼は一切風俗に行かなくなった。
「行かないの」と聞いても「気分じゃない」と微笑む。
目をそらせたまま。

そして、まんじりと家で酒を飲むようになった。
ダイニングで座り込んでいる彼をよく目にする。
そのダイニングのカウンターには、あのピンク色のいやらしい物体が置かれている。
俺がそこに置いた。
ここに置いておくから、と大石に言って。
いつでも俺は受け入れるから、と。

半ば強迫のつもりだった。
だけれど、彼はそのロープから離れたくないように見えた。
事実、彼は風俗に行く間も惜しんで、ダイニングに座っていた。
俺は期せずして、彼を悦ばせていたようだ。

俺の意図を感じつつも、彼はあえてその強迫を楽しむことに決めたようだった。
大石はそうして毎日酒をあおった。
俺の見ている前では彼はそれに目をやることもなく、
それを無視しているかのように振舞った。
だけれど、その仕草こそが彼はそのものの存在を強く意識していることを物語る。


「おつまみ何か作ろうか」
「いや、いいよ、少し飲みたいだけだから」

彼は俺に隣にきて一緒に飲もうとは言わない。
だけど、グラスを持って隣に座ると、肩を抱いてくる。
しつこいほどベタベタする。
だけれど服を脱がそうとはしない。


俺は彼を支配したのかと思ったけれど、それは間違っていた。
彼はやはり俺を支配していた。
こうした表情は、俺に見せつけるためのものではなかったかもしれない。
少なくとも表層意識下においては。
だけれど、彼はあざとく計算をしていないとは決して言えないことも事実。
彼は効果的にふるまったと思う。
そして俺は彼に支配されていった。

彼に支配されている俺、俺を支配している彼。
そして俺たちは二人とも性欲と幻想に支配されていた。
形を成さない性に蹂躙されていた。
俺たちはいつでも勃起しているようなものだった。

そのわりには俺はいつでもスッキリしていたし、大石も風俗に行かないわりには
大変にいつでもスッキリした顔をしていた。
単純な理由だ。


大石が俺よりも遅い帰宅になるときには、俺はそのロープを手にした。
大石に抱かれるのはいつだろうと思いながらも、恥知らずにもそれをペニスにこすりつけた。
そして、スボンの上からロープを股にくぐらせ、
前後に動かしてその摩擦を楽しんでは勃起した。
そして、十分に自分を高めたところで、ペニスを取り出して、射精した。
筋のたったペニスにロープを巻きつけて。

絶対に、というあからさまな断定の言葉を使ってもいい。
賭けてもいい。
彼は俺と同じことをしていた。
それは俺が出て行くときと違う形でそこに横たわっていることが往々にしてあったからだ。

そして、彼は俺がこうしていることを知っている。
知って敢えて俺を放置している。


俺たちは、それまで何の媒介もなく、ただ愛情のみで互いと結ばれていると感じていたが、
いまや違った。
俺たちの間には、このいやらしい色の紐が横たわっていた。
それによって、俺たちは分断されながらにして、結びつけられている。