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LUV ADDICTION
どうしてこんな男に育ったのだろうかと思う 中学高校と、クラス委員で、成績優秀で、品行方正で、運動神経もよくて、 何もかも揃った男だったのに 一流大学に合格して、エリートへの道を歩き出した彼の背中を俺は見つめていた 「なんだか寂しいな」 という俺に、彼はふんわり笑って言ったものだ 「大学で俺が変わるわけでもないだろ、俺は俺だよ」 確かに大学の名は彼を変えはしなかった その大学を優秀な成績できっちり4年で卒業した彼は、だけれど、就職をしなかった 俺は何となく中学高校と通った学校の付属大学に進んだ 何となくな成績で卒業して、何となく就職した 「大石はどうするの、これから」 「そうだな、どうしようかな」 「あ、あのさ、俺、就職したから家を出るんだ」 「そっか」 「一緒に住まない?」 そうして俺たちの生活が始まった 真っ暗な部屋に帰って電気をつける もう夜の11時 ネクタイを外して、スーツを脱ぐ ズボンはプレッサーに挟んで上着をハンガーにかける 腹が減ったな、と台所に行く 流しに灰皿が無造作に放り出してある 剣山のようにタバコが無数に突き刺さっている それとマグカップ コーヒーらしい茶色い液体が底に少し残っている 「今日も飯食ってないのかな」 一人呟く 彼は2時過ぎにのっそり帰ってきた 「ああ、おかえり、英二。遅くなってごめん」 「うん、ただいま」 おかしな挨拶だ 帰って来た彼がおかえり、と言って布団の中の俺がただいま、と答える おかしな二人 「どこ行ってたの」 「パチンコ」 「11時でしまるでしょ」 「うん」 何をしているのか分かったものではない この前は朝帰って来た 身体から安っぽいリネンの匂いがした 安っぽいラブホテルの香り こっそりポケットを探ると10万円が適当に二つ折りになって出てきた 「英二」 「うん」 「今度さ、何か買ってやるよ」 「いいよ、そんなの」 この男は、まだ24なのに恐ろしく老けて見える 40と言っても通用する 頬がこけて、厳しい顔付きをしている 目の下のくま 口の端のしわ 黒髪に混じった白髪 「英二、寝るのか」 「明日も会社だもん」 「セックスしたい」 「今日はもう眠いよ」 「なぁ」 布団の中で丸まった俺の上にのしかかってくる 「大石、お酒くさいよ」 「少しだけ飲んだ」 「日本酒でしょ」 「ああ」 息の匂いからすると、少しという量ではないことは分かった 匂いだけで酩酊しそうなほどだった 「英二、抱きたい」 「ダメだったら、お願い、もう今日は寝よう?」 この男は固形物を殆ど口にしない 朝目を開けると殆ど同時にタバコに火をつける それから寝るまでの間に5箱以上吸う コーヒーは常に手の届くところに置いている それだけで一日を過ごすこともある 「何か食べた?」 「ああ」 「何食べたか言ってみて」 「ネギ」 ネギとは何事かと思いつつも、彼を振り払いながら身を起こす 「夕食、お前の分作ってあるから温めてやるよ」 「そんなのいいから」 パジャマの裾から大きな手を差し入れる 脇腹から上に手のひらで撫で上げる 「離して、今日はダメだよ」 「お願い、したいよ、英二」 「だめだったら、明日の朝早いんだよ」 そんな風に言い合いながら、大石の手は俺の身体を這い回る 慣れた手つき 俺を10年抱いてきたその手 ポイントを知っている彼の勝ちは目に見えていた 「だめだったら・・・あ・・・」 「英二、乳首たってる」 パジャマを二の腕で強引にたくしあげて差し入れた手の親指で乳首をこねまわす 「おおいし、だめ・・・」 口ではそう言いながらも、身体は大石を求める 腕が彼の首にまわる 「英二、したいよ。してもいい?」 自分の首の後ろにまわった俺の片腕を股間に導く 「ほら、英二の中に入りたいって、こんな」 大石はジーンズの固い生地ごしにもはっきり分かるほどに勃起していた 何でだろう もう数え切れないくらいの回数、身体を重ねているのに 俺たちは互いの身体に飽きることを知らない そして俺はいつでも大石の勃起したものを触ると感動する 俺を求めている肉体に触れると胸がいっぱいになる 「大石、これ、口に頂戴」 俺は舌なめずりをする 大石が俺の頬にキスを落としている間、ファスナーが固くの下りる音が聞こえる 「脱がないの」 「早く中に入りたい」 大石を口いっぱいに頬ばる 大石の先から汁が漏れてそれが喉の奥に絡み付いて息ができなくなる 喉の奥に粘液の膜が張る 俺の顔の上にまたがって、大石は後ろ手に俺の乳首を愛撫する 大きくなった乳首を優しく転がす 「んふ・・・んんん」 自分の鼻息が熱い ジーンズは俺の息を遮断して撥ね返す 俺はそれで自分の息の熱さを知る きり、と大石は強く乳首をひねりあげる 「んんんん!」 叫んだのを契機に、大石は口からペニスを引き出す 俺の股の間に移動して、パジャマのズボンを引き下ろす 少し乱暴だ 俺の勃起したペニスがゴムに少しひっかかるけれど お構いなしに力任せに引きずり下ろす 早く入れたくて焦っている 「英二、ローションは」 「ちょっと待って」 寝室の枕元に置かれた小さなデスクの小さな引き出し そこに俺たちの小道具が入っている 俺は身をよじってうつぶせになり、四つんばいになって腕を前方に差し伸べる 大石はその機を逃がさない 腰を掴んでアナルに舌を差し入れる 「あっ」 俺の身体を支える腕ががくっと崩れる べちゃべちゃと舐める 風呂に入っていまいが、大便の後だろうが、彼はいつでも気にしない 味が違うのもいいと言う どれも俺の味だからと言う 襞を舌で押し広げるようにして味わう 「ああ、あ、あ、ああああ、あ」 俺は喉から出る声を抑えられない 身体におこりが走ったように震えて喘ぐ それでも必死で震える身体を起こして、ローションの瓶を握る 「お、おおいし、ねぇ、入れて・・・」 あれほど抵抗していたのが嘘のように大石の肉棒を求める 「もう我慢できない、お願い、大石のでイかせて」 大石は俺の震える手からローションをとると、鼻の頭にキスをする 「うん、俺も我慢できない」 一つに繋がる時にもいつでも胸がいっぱいになる 大石が大きく腰を沈めてくるその仕草、その表情、その感触 ローションでぬめった肉を押し広げて、大石の固い肉が分け入ってくる 「英二、苦しくないか」 俺の膝の後ろに手をあてがって、ゆっくり侵入してくる異物 俺は返事をする余裕なんかない 喘いで悶えるのに必死だ 苦しくないかと言われると、実際に苦しい 息ができない けれども、それは単純な苦しみではない 内臓が押し上げられて呼吸をすることを阻むけれど それはこの男と一つになっている証なのだ 「英二、いいよ、しまる」 大石は余裕を失って腰を動かす 節度も恥じらいもない 俺たちは頂点を目指して駆け上る 「ひ・・・あ、あああああ」 俺は喘ぐ 喘ぎながら目を開けると、男が俺をじっと見詰めている 「英二、英二」 俺の頬をさする 目を細めて、眩しそうな顔をする 「英二、お前いいよ、最高だよ」 無理矢理に身体を折り曲げて唇を重ねる 俺の身体は二つ折りになって、しかも彼に貫かれている それでもセックスの最中のキスは好きだ 大石の熱い息が身体に流れ込むのが好きだ 互いの濡れた唇を確かめ合ったあとは、ただ互いの頂点を 合わせるために動くだけ 俺は腰をくねらせる 大石はピストン運動を重ねる 前後左右不規則に互いの肉が絡み合う 泣き声を発する 俺も大石もセックスの最中に声を出す 女々しいと言われるかも知れないけれど、俺たちは快楽を声で表現することを厭わない 身体の相性が確実に存在するように この声の相性も存在する 俺たちの喘ぎ声はいつでも共鳴するけれど、いつでも互いの言葉を邪魔しない そして、俺は彼の喘ぎ声が好きだ 低い声で唸るように喘ぐ 彼の声を聴くと、俺は一層興奮する 一層彼をいとおしいと思うのだ 「英二、イイ、イイよ、英二」 「おおいしぃ、ああ、あ、あ、イくぅ、お願い、お願い、一緒に来て、来て、大石」 隣の住民は哀れだと思う 俺たちは殆ど雄たけびに近い声をあげて射精をする 「ううっ、う、うあ・・・あ、出る、出る。英二。お前の中に出すよ」 「ああ、きて、きて、大石。あ、あ、ダメ、俺イく、あああっ」 大石の膨らんだペニスが少しでも奥で精を吐き出そうと深々と突き入れられた衝撃で 俺は達した 次の瞬間、大量の液体が俺の身体に噴出した 熱い濁流が全身に走り、俺は快楽に震える 大石もぶるっと肩を震わせた 重ね合わせられた二人の腹部に押し挟まれた俺のペニスからも同時に噴きあがって 俺たちは叫ぶ 「ああっ、おおいしぃっ」 「えいじ、えいじ、えいじ!」 荒い息が切れぬまま。ぐちっと音がして、大石のペニスが俺から離れた瞬間、 大石は、ぼふん、と突然横倒しになって倒れた 俺はビックリしたけれど、寝息がすうすう聞こえてきたので気を持ち直した 大石はあどけない顔をして眠っていた さっきまで喘ぎ声が充満していた寝室に、ささやかな寝息が響く 大石の身体をひきずって枕をあてがってやる しばらく頭を撫でながら寝顔を見つめ、それから俺も寝た けたたましい目覚ましを3つ用意している 寝坊しがちだから、このくらいしないと毎日遅刻してしまうのだ だけれど、俺の横でジーンズ姿のまま寝ているこの男は全くその連続攻撃にも 微動だにしないで、すうすう相変わらず泥のように眠ったままだ いつも疲れた顔をしている男 そろっと布団から抜け出て、会社に行く支度をする 朝ご飯をテーブルの上に二人分用意する 置いておけば後で目を覚まして食べるかも知れないから 少し多めに作って置いておく メモに今日の夜の予定を書いてから家を出る 寝室を覗くと、まだすうすう寝息が聞こえた この旧友と酒を飲むのは1ヶ月に一度の恒例行事だ そう決めておかないと疎遠になっちゃうから、と彼は笑って強引に決定して それを俺にも強要する 嬉しい強要であることは事実だ 「子飼のヒモの調子はどう?」 くすくす笑いながら不二が訊ねる 「ヒモっていうなよぉ」 俺は憮然とビールを口に運ぶ 「どうしちゃったの、あの大石が」 「わかんない」 ヒモと言っても、どこからどうして来るのかは知らないけれど 毎月10万ずつは必ず俺に渡す その他にも何だかんだとお金を出してくれる 何かと何か買ってくれると言う 金銭面で俺の負担になったことはない 時々遅くに帰って来て、その度に札束を無造作にポケットにつっこんで来る どこでどうやって稼いだのか聞くとパチンコか競馬と答える しつこく訊ねると黙りこくる だけど、その度に変な匂いがする お酒と安っぽいリネンの匂い そして執拗に俺の身体を求める 「それってさ…」 「うん、多分お前の考えてること、合ってると思うんだよ」 「英二は嫌じゃないの」 「嫌だよ」 「じゃあなんで言わないの」 「言ったら、俺たち、きっともうオシマイだから」 俺は臆病だ 「全く君って」 はあ、とため息をつく 「曰く言い難く、大石が好きなんだねぇ」 家に帰ると、奥の部屋の電気が点いていた 部屋を覗き込むと、そこに彼はいた 「ただいま」 「おかえり、どうだった」 「楽しかったよ」 「そうか、それはよかった」 にっこり笑う顔が疲れている 「今度大石も一緒に行こうよ。不二も会いたいって」 「俺はいいよ」 ほっそりした身体を大儀そうに立ち上げてこちらに向かってくる 本当に痩せた もともと細かったけれど、テニスをやっていた頃はまだ筋肉もついていたし 精悍な感じがしたものだ 大学に入ってからもここまで痩せてはいなかった 彼の姿から生気は感じられない 「疲れただろう、もう寝るか?」 「大石は?」 「俺は起きたのが遅かったから、もう少し起きてるよ」 彼のいた場所を見やると、灰皿がまた剣山のようになっており、 その横にコーヒーカップが置かれていた 「何してたの」 「煙草吸ってた」 「それだけ?」 「うん、あ、あとコーヒーも飲んでた」 本当にこの男はそれだけで一日を過ごす テレビを見るでもなく、本を読むでもなく、ただ煙草をもくもくと吹かし、 コーヒーを時々啜り、それだけで一日を送る 「ねぇ、大石」 「うん」 「明後日は土曜日だしさ、どっか行かない?」 「いいよ、どこに行こうか」 時々は外にもでかける だけれど、大石はどこに行っても特別な反応を示さない 何も彼の注意を喚起しない 彼はずっと俺を見ている 買い物に行っても、博物館に行っても、何かを見ている俺を見ている 「どこか行きたいところないの、大石?」 「一緒だったらどこでもいいよ」 「あ、ねぇ、久し振りに水族館は?」 彼は俺と一緒に住むことになった時に、あれほど大事にしていたアクアリウムを置いてきた もういいんだ、と言って 場所もとるし、電気代も手間もかかるから、もういいんだ、と しばらくして落ち着いた時に、欲しいなら置いてもいいよ、と言ったのだけれど 彼はもう要らないと答えた 「うん、水族館、いいよ」 にっこり笑う 特別に嬉しそうでもなく、特別に嫌そうでもなく 「今日は?何か食べた?」 「うん」 「ウソはダメだよ」 「ごめん、食べてない」 テーブルの上には朝作って出た朝食が冷たくなって、そのまま手付かずで残っていた 「せっかく作ったのに」 「ごめん」 「でもいいよ、これはもう冷たいから、何か暖かいもの作ってあげる」 「いいよ、疲れてるだろ」 「お前が何も食べてない方が嫌だよ」 冷蔵庫を覗いて、ありあわせの具でうどんを作る 大石はそれをテーブルに座って眺めている 煙草を吹かしながら 「大石?」 「うん」 俺は振り返らずに鍋に卵を落としながら言う 「煙草、減らさないとダメだよ」 「うん」 「ホントに」 「うん」 卵が半熟になったところで、器に移す 「はい、全部食べないとダメだからね」 「すごい量だよ」 「朝昼晩兼用だからいいの」 のろのろと箸を手にして、嫌そうにうどんを一本つまむ 大儀そうにそれを口に運ぶ つる、と吸い込むことをしない 端を口に咥えて、箸でまた麺の中ほどをつかんで更に口に押し込む それを繰り返して麺を口の中におさめて、やっと咀嚼を始める 「おいしい?」 「うん」 「よかった」 美味しいと思ってるかどうかはどうでもよかった 俺は、このやる気のない生き物が食事をとっていることが嬉しくて ただそれだけが嬉しくて笑った 大石はちょっと顔をあげて俺の顔を見た 「英二、嬉しそう」 「そうだよ、大石がご飯を食べてるから嬉しいんだよ」 大石も笑った それから頑張ってうどんを全部食べた 食べながら顔をあげて俺を時々見て 俺が笑って 大石も嬉しそうに笑った 「ごちそうさまでした」 「はい、結構でした」 一緒に寝よう、と言ったけれど、もう少し起きているからと 俺の髪にキスをして、彼はまた奥の部屋に戻った 夜中にふと目を覚ますと、どこからか声が聞こえてきた気がして 俺は起きあがった 布団の隣に寝た跡がないので、大石はまだ起きているということだ 「大石?」 俺は奥の部屋を覗いたけれど、そこに彼はいなかった どたばたとトイレに走っていくと、大石が便器に顔を突っ込んでぐったりしていた 「大石!」 身体を抱えて、便器から引き剥がす 腕に抱えた彼の身体は信じられないくらい軽かった 俺よりも背が高いのに、この軽さはありえないと言ってもよかった 「しっかりして!目を開けて!」 青ざめた頬をぺちぺち平手で打つ 頬がこけているので、頬骨に固くぶつかる手のひら ぺちぺちと言うより、ガツガツという音 「え…じ、痛い…」 ようやく口を開いて、薄目を開ける 「大石、どうしたの、気持ち悪いの」 「大丈夫…」 弱々しく俺の腕の中で微笑む 「どうして笑うの、笑わなくていいよ、大石、苦しいんでしょ」 痛々しすぎるその笑顔が俺の視界でぼやける 大石の腹筋がひくひくと動く 腹の上にあてがった俺の掌に伝わる律動 嘔吐感を必死で押さえているのが分かる 「英二、泣くな」 彼の顔が曇る 優しそうな目は昔のままだ いつでも「大丈夫だよ」と言っていた そのたびに俺は安心してた こいつが大丈夫だと言えばオールオーケーだと思った 「大丈夫だから。な。心配させてごめんな」 便器の中は空だった 匂いもしないから、まだ吐いていないのだろう 俺は大石のお腹をさする 「気持ち悪いの?吐きたい?吐く?」 「大丈夫。少し休めば大丈夫だよ、英二。だから泣くな」 辛いだろうに、細い腕を持ち上げて、俺の涙をぬぐう そして頬に手のひらをあてる 「大丈夫だよ」 俺は泣いた わんわん泣いた 大石の頭を胸に抱いて 彼の冷たい手のひらを自分の頬に押し当てて 泣いている間中、大石はずっと大丈夫だ、と言っていた 時々その声も途切れた ぐう、と喉が鳴って少し腹筋を揺らした それでも大石は声を絞って大丈夫だと言い続けた 部屋まで連れて帰って、布団に寝かせる 布団を軽くお腹のところまでかけて、枕元に洗面器を置く 「寝な、大石。俺、ずっと隣で見ててあげるから。ね、俺がいるから」 細い腕が布団から出て、あたりをまさぐる 「どうしたの」 「手、握って」 きゅっと握ると、汗ばんで冷たかった 「ごめんね、俺が無理矢理食べさせたからだよね、ごめんね」 「違うよ、おいしかったんだよ、英二」 俺には少し分かった 大石は本当には食べたくなかったのだ だけど、俺が大石が食事をしているのが嬉しいと言ったから 彼はかなり無理をして食べたのだ 無理矢理ものを入れられた胃がそれを受け付けなかったのだ だけれど、長く食べていなくて体力が落ちている大石の身体では それを押し戻すだけの力もなかったのだ 「ごめんね、大石、ごめんね」 「泣くなよ、英二、お願いだ」 大石はゆっくり身を起こして俺を胸に抱いた 「泣くな、英二。胸が潰れそうだ」 次の日は俺は会社を休んだ 朝から会議があったので電話の向こうで上司は不機嫌そうだったけれど 身内の病気だというと、しぶしぶ「お大事に」と返された 大石は、医者に行こうと言っても頑として拒否する 「医者は嫌だよ」 「一度診てもらおうよ。ね。心配だから。お願い」 「嫌だ、行きたくない」 ゆっくり身を起こして、枕元に座った俺の膝に頭を乗せて背中に腕をまわす 「英二がいれば大丈夫だから、俺。どこも悪くないから」 重湯を炊いて寝室に運ぶ さじで少しすくって、ふうふう冷ましてから口元にあてがう 「熱くない?」 「ちょうどいいよ」 でもきっと、口の中が焼け爛れても、この男は俺の手から差し出されたものなら 何でも口に入れて微笑む ほんの少しだけ小鳥のように食べて、目を閉じる 俺がそのまま横で彼の額を撫でていると、その内に寝息をたてはじめた 胃におさまったのを確認してから、今度はもう少し米の量を増やしたお粥を作ろうと立ち上がる 部屋を出ていこうとすると彼の声が聞こえた 振り向いたけれども、すうすう寝息をたてて目を閉じていた 寝言のようだったので、そのまま部屋を出た 「たすけて」 と言わなかったか? ゆるめのお粥もほんの少しだけだけど、お腹におさまった 「気持ち悪くなったら言うんだよ」 お腹を触ってみても、今日はひくひくしていなかった 「大丈夫、おいしかったよ」 「だって昨日もそう言ったじゃない」 「昨日もおいしかったんだよ」 「ねぇ大石」 「うん」 頬に手をあてがって、ゆっくりさする 大石はその俺の手に自分の手を重ねてうっとり目を閉じる 「俺さ、変な話思い出しちゃった。話してもいい?」 「うん、聞かせて」 どこで読んだのか忘れた ヨウムの雛を飼った人の話 暖かいドロドロの餌をスプーンの端に乗せて、雛の口元に持っていくと くっくっくっと首を前後に動かしてそこから削るようにして食べる それがとても可愛いのだけれども その人も同じように餌を温めて雛にやっていた 雛は沢山食べて、お腹が空いてたんだね、って笑って見てた だけど、日が経つにつれて雛はだんだん弱っていって そのうちにぐったりしてしまった 慌てて医者に連れていくと、雛の食道からそのうが焼けただれていた 火傷するくらい熱くても、目の前に差し出されたら雛は本能的にそのうが満タンになるまで食べてしまう それも知らないで、その人は毎日毎日その雛を殺していってた 身勝手な善意で殺した その雛はもう助からなかった 「俺、怖いんだよ、大石」 「何が」 「俺もそうやって大石を殺していってるんじゃないかって」 「馬鹿なことを言うな」 大石は優しい目で俺を見上げて囁く 「俺は英二がいないと生きていけないよ」 その雛だってそうだった 飼い主が餌を与えなければ餓死していた だけど、餌を与えても死んだ 飼い方が間違っていたからだ 他の飼い主のところに行けば死なずに済んだのに 俺は大石の愛し方を間違っているのではないだろうか 「怖いよ、大石」 「怖くなんかない、大丈夫だ」 ぎゅっと俺の手を握る 「こうしていれば大丈夫だ」 腕を手繰り寄せて俺を引き寄せる 寝転んだ大石の上に頭を乗せて、俺は彼の胸にしがみつく 「俺じゃ頼りないか」 「ううん、そんなことないよ」 「ごめんな、もっとちゃんとするから。もうちょっと待ってな。俺、ちゃんと働くから。 な、ごめんな。心配させてごめんな」 「そんなの…そんなのいいよ、大石」 俺は焦る どうしたら分かるんだろう 俺はただ彼の身が心配で、無職なこととは何も関係ないのに 働きたくないなら働かなくてもいい ただ幸せで元気で笑っていてくれればそれでいい それだけなのに 「大石ぃ、お願い、お願い、煙草減らして、それでご飯ちゃんと食べて。お願い。 それだけでいいから。お願い」 「泣くなよ、わかった、減らすよ。飯もちゃんと食う。わかったから、英二」 不安になればなるほど密着したくなる 何故だろう グラグラした心を身体で支えようとするからだろうか そんなの、別の話なのに そんなの、ただの誤魔化しなのに 日曜日には水族館に出かけた 大石は少し調子もよさそうだったし、外に出たいとも言った 昨日の今日なので、当初考えていたところは取りやめて、近場の水族館に出かけることにした 「中学の時に一緒に行ったよね、夏の終わりに」 「ああ、行ったな」 「覚えてる?あのドームのところ」 「うん、覚えてる」 そして、軽くキスをする 俺たちはあそこで初めてキスをした ドキドキしたのを覚えてる 大石がすごく優しかったのも覚えてる その水族館はショーの類はやっていなくて、ひたすら大型の水槽が並んでいる、いわば少し 愛想のない水族館だけれど、大石はそこが好きなのだと言っていた 実際、子供連れもあまりいないし、そう混雑もしないのでいい雰囲気ではあった 「見て、ああいうの、前に大石の水槽にいたよね。可愛かったよな、あいつ。 餌入れると喜んでグルグル泳ぎ回っちゃって、なかなか食べなかったっけ」 「あれ、お前の家にあった図鑑で見たやつだ。あんなに大きいんだ。知らなかった」 「見て見て、あんなにカラフルだと毒でも持ってそうだよね」 俺は水槽の中を指差して、あれこれと大石に語り掛ける 彼はじっと俺の顔を見て、にこにこ微笑む 「大石?魚見ないの?」 「見てるよ」 だけれど、水槽に身体の側面を向けて、じっと俺の顔をみつめる そして微笑む 眩しそうに、優しく 「大石、もう魚は好きじゃないの?」 「好きだよ」 だけれど、俺しか見ない 「見ようよ、ねぇ」 「うん、見る」 だけれど、俺の頬を指の背で撫でる 少し歩き回って疲れたあたりに、ドーナツ状の水槽がある 人はドーナツの穴の部分に入ってまわりをぐるっと泳ぐマグロの群れを眺める構造になっている ゆっくり見られるようにとの配慮か、ベンチが置いてあり、ライトも水槽からの青い光とフットライトだけだ とても静かな場所で、昔、ここでいつまでも手をつないで座っていたことを覚えている 「座ろう、少し疲れたでしょ」 暗いのをいいことに、俺は大石の手を握ってベンチに腰掛ける 「マグロ、相変わらずおいしそうだね」 大石がそっと横に腰掛ける 水槽からのぼんやりとした青い光がその横顔に反射して、弱々しく見えた 俺はどきっとして、つないだ手に力を込める 「どうした」 「ううん、なんでもない」 大石の顔から目を離して、じっと目の前に広がる水槽を眺める 「すごいね、ここは」 ぐるぐると遊泳する巨大なマグロの姿は誠に優美だ 青いライトが身体にしっとり反射して、大変に美しい しばらく眺めて、ふと隣を見ると、大石は微笑んで俺の顔をまた見ていた 「どうしたの」 「青が映えて、とてもステキだなって」 いとおしそうに俺の頬をさする 瞼に影が落ちて、俺は目を閉じた 大石のふっくりした唇が俺の唇に重なる いつも感じることではあるけれど、細胞の密度が違うような錯覚を覚える 明らかにきめが細かい彼の肌は、俺の肌に吸い付くようだ 俺がそれを言うと、彼はいつでも自分も同じように感じると言う 浸透圧っての?そういう感じだよ、と 俺たちは次第に互いの口に舌を差し入れた深いキスへと移行する 静かな建物の中、ただゴウンゴウンという水槽からのモーター音と俺たちのたてる粘液質な音が響く 「ん…大石…だめ」 大石が俺の股間に手を伸ばしたのを上から押さえる 「英二、大きいよ」 大石の息は煙草の匂いがする 俺は電車の中でも、同じ銘柄を吸っているであろうオヤジの匂いに興奮してしまうこともあって、 それが困りものだ 煙草の匂いは俺たちのセックスを喚起させる 「ね、だめ、少し静かにしてれば落ち着くから、触らないで」 大石は俺の下唇を噛んで軽く吸う ちゅぷちゅぷと口に俺の唇を出し入れする 「英二の、舐めたい」 「だめだよ、大石、人が来るよ」 「見えないよ、暗いから」 大石は俺の股間に顔を埋めてジッパーを下ろす むっくりと亀頭が鎌首をもたげてその隙間から出ようとするのが分かる 「興奮しちゃって、可愛いな」 指でペニスの先を撫で回して、やおら口に含む 大石の口の中はねっとりと暖かい 俺は自分の体温が急に下がったような錯覚に身を震わせる 大石はくちゅくちゅ口の中で俺のペニスを動かす 舌の上に乗せて、上顎との間に挟んでこねまわしたり 頬の片側に寄せて軽く甘噛みをしたり 喉の奥に突き当たるほど深々と飲み込んで喉で締め付けたり 俺のペニスを口の中で散々愛撫する じれったいほどの優しい愛撫に俺は自然と腰を前にせり出す 「大石・・・」 囁いて大石の頭を撫でる でっぱった後頭部、耳の後ろ、耳の穴の中にも指を入れる 「大石、大石・・・」 うつむきになった襟首から手を差し入れて背中を撫で回す 細い背中 骨がボコボコ浮き出ている背中 その一つ一つを指にひっかけて、次の出っ張りをまた愛撫する 視界の端に映る魚の光沢がやけに眩しい 大きなマグロがゆったりと、身体に青い光を宿しながら映り行く 大石は次第に口の動きを早めていく ぐちゅ、という音を時折立てながら、頭を上下に動かし、唇と口腔で俺のペニスを締め付ける 「あ・・・は・・・」 息があがる 声を出してのセックスになれた俺には、この声を抑えるのは至難の業だ 何とか喉を震わせないように、囁きと荒い息だけ嬌声をあげる 「はぁ・・・お、いし・・・イくぅ・・・」 声を合図に、大石はズボンの上から睾丸を揉みだす 俺の絶頂は実にあっけなく素早く到来した 「ひ・・・」 ぶるっと震えて、俺は大量に射精した 大石はちょっと動きを止めて濁流の一番波を受け止めてから、今度は口で搾り取るように ペニスを優しくゆっくりと扱く 小さくしぼんでからも、根元まで口に含んでは先まで扱きあげ、精液を搾りとって飲む 「ふ・・・」 大石が口を離すと、俺の小さくなった濡れたペニスはぽとん、とズボンの上に落下した 「英二、可愛い」 そのペニスの茎の部分に軽く口付け、手でぬぐってからズボンの中にしまう 顔をあげると、大石の頬は珍しく紅潮していた 目がうるんで、水槽からの青い光を反射する その光がとても美しい 「英二、可愛い」 また言うと、俺のおでこにキスをする ベンチを固く掴んだままの俺の手を引き剥がして、手の甲にもキスをする 俺はアナルがじんじんした 俺の身体は、射精しただけでは収まらない熱をおびている 「大石、ねぇ、トイレ行こう?」 「どうした、拭いてくるか?」 「違う」 耳元に口を近づけてそっと囁く 「入れて」 大石の股間に手を伸ばす 「大石が欲しい」 トイレで立ったままセックスをした 俺たちはもう恥じらいなんか持っていなかった トイレの扉をがつがつ揺らして、あえぎ声を出して、後背位で結合した 「英二、英二」 「あはぁ、大石ぃ、もっと、もっと突き上げて」 誰もトイレに入ってこなかったけれど、あれだけ大きな声を出していたのだから 入り口には響いてだろうし、当たり前だったのだ 俺たちは同時に達した 終わっても尚身体を繋げたまま、俺は身体をよじって後ろを向き、大石とキスをした 次の月の不二との飲みの時、俺は少し大石の体調不良について話をした 不二は眉間にしわを寄せる 「それはここがおかしいと思うな」 胸に手をあてる いつでもこの友人は冷静だ 「内科よりも精神科に連れていくべきだと思うね」 「うん、俺もそんな気がする」 「ねぇ、これから僕が話をしようか」 「うーん…」 事実、俺は大石に強く言えないし、こういうことは第三者から言って貰うのが いいとは思いながらも、大石は他の人とあまり会いたがらないので俺は困った 「とりあえず電話してくる」 「なんて言うの」 「お前を連れて帰っていいかって」 少し渋ったけれど、お願い、というと大石は折れた 家に帰ると、大石は奥の部屋から頭の片隅を出して「おかえり」とだけ言うと、 またドアを閉めてしまった 「大石、ちょっと話したいことがあるんだけど」 不二がドアをノックする 返事がない 俺が横から声をかける 「お願い、大石、話聞いて」 しばらくしてからドアが静かに開く 出てきた大石を見て、不二が身を固くしたのが分かった 「変わったね、大石」 「そうかな」 大石はおどおどして俺を見る 俺は無理矢理に微笑んで見せる 少しでも安心させたかった 大石は目に見えてビクビク警戒していた 卑屈な顔で不二を伺う 不二は思い切ったように大石の左腕を掴んで袖を捲り上げる 熱いものに触れたかのように大石は腕を引いた 俺は何が起こっているのか分からないまま、ただ立ち尽くしていた 「不二、なにを…」 「ああ、ごめん、麻薬でもやってるんじゃないかと思ったから」 しらっと言う 「でも注射のあとはないし、大丈夫そうだね」 「ねぇ、大石」 ダイニングに移動してコーヒーをいれて少し落ちついたところで不二は切り出す 「きみ、少し痩せすぎじゃないかな」 「そんなことない」 大石はコーヒーカップを両手で包み込んで下を向いたまま囁く 「そんなことあるよ、ハッキリ言って骸骨みたいだよ」 「そんなことない。大丈夫だ」 肩が震えているのが見える 脅えている だけど何に? 俺はそっと手を大石の方に伸ばす 大石は急いでそれをぎゅっと握る 手も震えて冷たくなっていた 俺はその手を自分の方に引き寄せて、両手で包む さすってやると、少し震えがおさまってきた 「一度病院に…」 「嫌だ」 強い口調で遮る 「病院は嫌いだ。行きたくない」 「大石」 不二がそれよりも強い、冷たい声で話す 「英二を心配させてるのが分からないのかい?」 大石の手がぴくっと震える 「君、食事も満足に摂らないそうじゃないか。食べてもすぐに気持ち悪くなって、 だけど吐く体力もないんだろう? それでこの前は英二は大事な会議もすっぽかして会社を休んだって言うし。 それがどれだけ英二に負担をかけているのかわかってるの?」 大石は顔をあげて俺を見る 俺は少し目をそらす どんな顔をしてみせたらいいのか分からなかった 「一体君は何を考えているのさ。一体どうしちゃったのさ、大石? 職にも就かないでフラフラして、どこからか知らないけれどお金を持って帰って来てさ。 英二が何も言わないから何も思ってないとでも?」 「不二、それは…」 俺は慌てた 俺が不二にそういうことまで話していると知ったら大石は嫌がるだろうと思ったからだ 「ハッキリさせておかないと困るのは君なんだよ、英二」 不二は冷たく言い捨てた 「俺は…お前のお荷物になってたか?」 大石は俺をじっと見る 不安そうに、悲しそうに、脅えたように 「英二、俺がいないほうがいいか?」 「大石、そんなことないよ。俺、大石にそばにいて欲しいよ。だけど、俺、心配なんだ」 俺は大石の震える手をぎゅっと握った この人を脅えさせないように 「別に無職でもいいんだ。働きたくないならそれでいい。 俺がちゃんと食わしてやるから、そんなのいい。 だけど、どこからお金を持って帰ってくるのか、それが分からなくて不安なんだ。 変なことしてるんじゃないかって。家に帰ってお前がいないと不安でたまらないんだ。 先に布団に入ってるけど、眠れないんだ。ドキドキして不安でたまらないんだ」 大石はびくびくしていた すっかり脅えて、追いつめられた獣のようだった 「だけど、英二、俺…」 それでもその先の言葉は何も続かなかった 完全に言葉を失ってしまって、ただ瞳を俺に吸い付けたまま震えて脅えた 「言えない?」 俺はなるべく詰問口調にならないように、努めて優しい口調で訊ねる 震える拳を握った手にそっと力を入れて 「危ないことしてなければそれでいいんだ。だけど分からないから心配なんだよ。 俺の言ってること、わかるよね?」 こっくり肯く 「だから、遅く帰ってくる時、何をしているのか知りたいんだ。 ああやって出かけた時、ジーンズの尻ポケットにいつもお金沢山入ってるよね。 それでお酒飲んでて、あと、あと、何だか匂いするよね、あの、ああいうホテルみたいな」 びくっと震えた 明らかに震えた、というか、身体が跳ね上がった 「ううん、いいよ。びっくりしなくていいよ」 慌てて手を強くさする 「俺ね、別にいいんだ、お前が浮気してても、そりゃちょっとは嫌だけど、いいんだ。 最後にちゃんと俺のところに帰ってくれば、それでいいんだ」 手を握ったままゆっくり立ち上がる びっくりさせないように 小鳥を捕らえる時のように、そろっと立ち上がる 細い太股の上にそっと腰掛ける すっかり痩せた太股は本当に細くて折れてしまいそうなのだけど こうして膝の上に座られるのが好きなことを知っているから そおっと腰掛けて、片腕を首の後ろにまわす もう片方は頬に伸ばして、ゆっくりさする 「大好きなんだよ、大石。お前が何をしてても、どうなっても、俺、お前がずっとずっと好きだよ。 だから隠し事しないで欲しいんだ」 そっと俺の腰に手がまわる 子供が母親にすがるように、俺の胸に頭を擦りつける 俺はその頭を胸に抱いた 「ごめん、英二。言えない。だけどもうしないから。だから許して」 くぐもった声で静かに話す 静かで、決然と 「じゃあせめて病院には行くよね?ね、行こうね」 しばらくの後、こっくりと肯く 不二が大きく息をつくのが背後で聞こえた きっと固唾を飲んで聞いていたのだろう 「よかった。じゃあ僕はこれで」 「うん、ありがとう、不二」 「いいよ、そんなの。こっちも出過ぎた真似をして申し訳なかったね」 立ち上がって、大石の肩にぽん、と手を置く 「じゃあ大石、明日病院には行きなね。もう英二に心配かけないようにね」 大石は俺の胸に顔を埋めたままこくんと肯いた 不二が帰っていっても、俺たちはしばらくそうして抱き合っていた 俺は何となく、明日有給を使って休もう、どこの病院に行こう、やっぱり大きなところがいいよな、 と色々考えていた 大石はひたすら俺の胸に頭を擦りつけて、俺の匂いを嗅いでいた 「大石」 声をかけると、ぴくっと動いて震える 「もう寝ようか?」 頭を撫でて静かに聞くと、肯いた 布団を敷いて、大石の身体を横たえる 細くて頼りない身体 「大石、明日は頑張ろうね」 俺は大石の髪をくすぐる 脅えきった目で俺の顔をじっと見ていた大石は、やっと口を開く 「明日、行くの」 「そうだよ、一度ちゃんと診てもらおう」 「行きたくない」 「さっき約束してくれたでしょ」 「そうだけど」 悲しそうな顔をする 「何科に行くの」 「そうだね、内科がいいんじゃないかな」 ひとまず内科に行けば、適当なところにまわしてくれるだろうという目論見が俺にはあった だからこそ、俺は大石の言葉に少しどきっとした 「そこから精神科にまわされたりしない?」 「わかんないな、それはお医者さんの判断だよね」 「入院とか言われない?」 「それも分からないよ」 「行きたくない」 「大石」 「行きたくないよ、英二」 添い寝をした俺の胸にすがりついて震える 「なにが怖いの、大石?」 大石の頭から背中にかけて大きくゆっくりとさする 「離れたくない」 「何と?」 「英二と」 ぶるぶる震える大石の肩を、俺は優しく抱いた 「離れないよ。どこに行っても俺たちは一緒だよ、大丈夫だよ」 「嫌だよ、英二。俺はお前と一時だって離れていたくないんだ。会社にやるのも本当は嫌なんだ。 いやだ、いやだよ、英二」 俺は思い出す まだ一緒に暮らしだしてしばらくの頃、一度だけ、会社の前まで来てしまったことがある その時の彼の顔 ぶたれすぎて臆病になってしまった犬のようだった 声をかけたら走って逃げた 食事をしなくなったのはあれからだ 家にずっといても何も食べていない 自分が朝出ていった時のまま、台所からカップとインスタントコーヒーと灰皿がなくなっている 以外は何も変わっていない 一度あらゆるドアに紙を挟んで出かけたけれど、帰って来た時には奥の部屋のドアだけしか 開けた形跡がなかった 要するに、彼はあの部屋と台所の間しか移動していないのだ そして、奥の部屋にはテレビも本棚も何もない ただクロスが敷いてあって、テーブルとソファがあるだけだ ソファにも座らず、床の上に彼は壁を背にして座り、一日中座っている 煙草をふかして、コーヒーを啜っているだけ そのまま一日を過ごしている 俺はこの人に何をしてしまったのだろう 「大石、大石、俺、何をしたの。何をしてしまったの」 大石は俺の胸にしがみついて泣く 「いやだ、英二。俺を遠ざけないで。頼むからそばにいさせて。お願いだ、英二。 俺を離さないで。英二、英二。愛してるんだ。英二」 「大石」 「英二」 俺たちはどこに向かうのか 奈落か 「大石、大石」 俺には出来ない この人を突き落とすことなんか出来やしない 頭を抱いた腕にぎゅっと力を込める 「一緒に落ちよう、大石」 俺は舞台から腕を離した 落ちよう あの愛情耽溺の海に |