山猫の森/2



旅人はゆっくりと村の中に入り、あたりを見渡した

寂しい村だった
活気がなく、昼間だというのに子供の遊ぶ声も聞こえてこない
旅人は村の中央にある広場まで進んで行ったが、途中で誰にも会わなかった

ただ、視線を感じた
怯えたような敵意のある瞳が、あちこちの窓からこちらを伺っているのが分かる

何だろう、この村は

旅人は自分の懐にしまわれている封書が、
この村に災いをもたらすものではないといいがと思った

貧しい村
山に囲まれて土地の多くを深い森に覆われた村
足もとの土はガサガサしており、もとから質のいい土壌とは思えなかった

旅人が村の広場に行くと、既に伝わっていたのか、村の自衛団とおぼしき男たちが
手に手に武器や農具を持ってそこに待ち構えていた

その武器は大変に粗末な刀だったり、使えるのかどうか怪しいライフル銃だった
農具も先が欠けたり、柄が曲がったりしていたし、それを持っている男たちも皆、
痩せて貧相な顔をしていた

「あんた、どこの者だ」
北部の訛りで中央にいる比較的屈強そうな男が旅人に声をかけた

「わたしは王宮から派遣されてきた者です
書面を預かってきています
この村の責任者に会わせてください」

旅人が懐に手を入れると、男たちはびくっと跳ね上がり
武器を目の前に構えて後じさった

「大丈夫です、書面についている紋章をお見せするだけです」
旅人は懐から封書を取り出すと、そこに押されている
王家の紋章を高々と掲げた

「どうか、責任者にお目通りを」

屈強な男の合図で、一人が村の奥へと駆け出した

「そ、その手紙には何が書いてあるんだ」
「わたしは中身が何であるかは聞いておりませんし、封がされておりますので
見ることはできません」

「あの嘆願書がきっと王様に届いたんだ」
「そうだ、きっとそうだ」
村人たちの痩せた顔に紅がさし、どっと男たちはどよめきだす

「王に嘆願書を送られたのですか」

「そうだ、この村はここ3年ほどひどい凶作で、全く麦が取れないんだ
わずかな実りも、あの森に住む動物たちに食われちまう
森の木を切って売ろうにも、森に入ったものは山猫に食い殺される有様だ
もうどうしようもなくなって、俺たちは王様に手紙を出したんだ」

「そうだ、きっと王様は俺たちの叫びを聞いてくださったんだ」
「万歳、王様万歳」

旅人はその歓喜の声を、胸がしめつけられる思いで聞いていた
この村の窮状がいかなるものであれ、王がその者たちを助けるとは思えなかった

先の戦争で、この国は多くの働き手と多くの物資を失った
敵の領地は奪ったが、それは失ったものに比べてしまえば取るに足らない程度だった
そもそも、農地を求めての戦争ではなかったのだ
ただ、貴族の面子の為に起こったような戦争だった

この封書を渡したら、開かれる前にこの村を退散したほうがよさそうだと旅人は感じた
ここに居ても何が出来るわけでもあるまい
かえって自分の身が危ないだろう

「お待たせしました、村長がこちらにおいでになるようにと」
はっと顔を上げると、先ほど奥へと駆け出した男が満面の笑みを浮かべて
旅人の前に立って手で道を指し示していた

「はい」
旅人は村の奥へと進みながら、万が一の時に逃げられそうなところを横目で探した

しかしそんな必要もないほど貧しい村だった
村の垣根の類はボロボロに腐っていて、いくらでも突き破れそうだった
内側の垣根は勿論、その外側にぐるりと広がっている畑のまわりに張り巡らされた垣根も
既に大きな穴が開いて、そこをまた腐りそうな板で補強しているところもある
今が冬とはいえ、その雪の合間から見える土では作物が実りそうな予感がしなかった

ふっと見ると、窓から子供がこちらをうかがっていた
もともと大きいのだろうが、ガリガリに痩せて余計に目が大きく見える
その目に絶望の光が宿り始めているのを旅人は眺めた

「まだあんなに小さいのに」
ぽつりと呟くと、後ろからぞろぞろついてきた村人の一人が答えた

「そうさ、あんな子供にすら腹いっぱい食わせてやれないんだ
大人はまだいい
我慢だってできる
だけれど、やっぱり子供たちはなぁ
不憫でならないよ」


村の奥に、他の粗末な藁葺きの家に比べれば格段に豪奢であろう家が一軒
そこに旅人は導かれて中に入る
中には老人が一人、小さな暖炉の小さな火を前に椅子に揺られている

旅人はその老人の前に進み出て、王からの書簡を手渡した
そのまま村を去るべきであった
彼はそうするつもりでもあった

だけれど、あの少女の落ち窪んだ目が自分を見ているようで
どうしても足が動かなかった

「使者の方、この大雪の中、誠にご苦労様でした」
老人はかすれた声で礼を述べた
「お疲れでしょうが、もう少しだけおつきあいください
わたしたちがこの書を読み、そのお返事をさしあげることになった時の為に」

「分かりました」
旅人は勧められた椅子に浅く腰を下ろした
胸の奥がザワザワした
まるで夜の森を生暖かい風が駆け抜けるように、旅人の胸は高鳴った

そして腰にさした剣の柄を手のひらで確認した

握れるだろうか、と一抹の不安がよぎるが、山猫のかけてくれた呪文が彼の右手に力を
与えたことを思い返し、微笑む

村人たちは旅人の後ろから家の中にぞろぞろと入ってきており
老人が封書を開いて、それに目を走らせる内に青ざめていくのを眺めていた

誰も口をきかなかった
嫌な予感に押しつぶされそうになりながらも、その閉塞した空気の中で
かすかな希望によりすがって立ち尽くしていた

それは何と頼りない希望であったことか


「みんな、きいてほしい」
老人は手紙を畳み、しばしの逡巡の後に口を開いた

「あの森を焼き払い、田畑に変えよう
これしかわしらの生き残る道はない」

その言葉が終わるなり、家中は壁が割れんばかりの大騒ぎになった
村人たちは何が起こったのか認めようとしなかったので

「わしらに残された猶予はあとたった1年だ」
老人が静かに指を一本上げると、その大騒ぎもしんと鳴り止む

「あと1年たって、税金が支払えない場合には、この村はもうお終いだ
春が来る前にあの森を焼き払い作物を植えられるように準備を始めなければならない
わかるな、一刻の猶予も残されてはいないのだ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」
旅人は立ち上がった
「どうしてあの森を焼く必要があるんだ
あの森に住んでいる多くの生き物たちはどうなる」

「仕方がないのだ」
老人は静かに諭すように言う

「あの森には山猫が住んでいる
あの森の木を伐採して売れば金になる
それで税金が払える
国もそう考えて我々からの税をあてこんでいる
だけれど、あの森に入った人間はみな食い殺されてしまうのだ

しかも秋が深まり、冬になるとあの森の山猫たちは
食い物を求めて人里にまで下りてくる
その為に細々と育てている作物まで食い荒らされてしまう有様だ
あの森を焼き払うしかないのだ
そしてあそこを田畑にする

山猫たちは多少抵抗もするだろうが、住処を奪われれば他の森に逃げるだろう
わしらは座して死ぬわけには行かないのだ」

老人の言葉は真実、旅人の理性を納得させるに足りた
だけれど、旅人はあの赤毛を思った
それが彼のこの村に対する不干渉を破らせた

「しかし、待ってください
今森を焼けば、行き場を失った山猫たちはここを襲います
一番手近な食料を手に入れられる場所はこの村なのですから
森を焼き払うのは得策ではありません」

老人が口を開くより早く、村人の一人が耐えかねて躍り出た
そして旅人の胸倉を掴み、憎々しげに口元を歪めて怒鳴る

「うるさい、よそ者のくせに、分かったような口をきくな!」

それを契機に、村人たちは一斉に旅人に向かって罵声を浴びせかけた

まるで先ほどの王からの書簡が彼自身の発した言葉であるかのように
群集はいきりたち、彼を口々に罵った

「そうだ、お前に何がわかるというんだ
俺たちの畑はもうやせ細って何も収穫がないんだ
どうやって税金を払えばいいというんだ
あの森を焼いて田畑を広げるしかないじゃないか
他にどういう手だてがあるんだ

税金を納められなかったら、男たちはみんな牢屋に入れられてしまう
そうしたら残された女子供の面倒は誰が見るんだ
お前が見るのか
できもしないくせに大きな口を叩くな」

その罵声は全く的を得ており、その口調の激しさとはうらはらに
正当で抗いがたいものであった

旅人はぐっと歯をくいしばり、周囲から忍び寄る敵意に身を固くした
そして、抜くつもりはなかったが、剣の柄をもう一度手で確認した

瞬時にして武人の顔つきになった旅人のその仕草は、村人たちを刺激した
群集はじりじりと彼を睨んだまま、後ずさりをはじめる


「あんた、知ってるぞ」
一人の男が旅人の顔をまじまじと見つめていたが、
やがて叫んだ

「死神だろう、前の戦争で百人殺した、あの」

旅人は打たれたように立ち上がって叫んだ
「違う、俺はそんなに殺していない」

しかしその叫びは先刻の指摘を肯定する響きをもって村人たちの耳に届いた

「やっぱりそうか、死神め
お前を送り込んできたということは
俺たちがこの命令に従わなければ村中を皆殺しにする気だな」

「そんな・・・!」

「こいつは死神だ
前の戦争で剣一本で百人も殺したんだ
相手は兵隊だぞ
兵隊を百人も殺したんだ
俺たちの村なんかあっという間に全滅だ」

男の感情的な叫び声に呼応するように、
村人たちはどよめいて、旅人を凝視する

旅人は戸惑いながらも、腰を椅子に下ろした
立ち上がっても村人たちを怯えさせるだけだと考えた

「わたしはそういう命を受けてここに来たのではありません
ただ、その書簡をこの村にと言われているだけです」

「じゃあその腰にぶら下げている剣は何の為だ」

「これは護身の為です
山越えをする最中にどんな目にあうか分かりません
もしその必要があるなら、これはあなたがたに預けましょう」

旅人は剣を鞘ごと腰から抜き、テーブルの上に置いた
「この村を出るときに返していただければ結構です」

旅人はその黒い瞳で村人たちを見つめた
村人たちはその目に射すくめられて、押し黙る


一人が老人の目配せで、その剣を奥の部屋へと持って消えた


老人の決定により、森を焼くのは明日の朝ということになった
どうせやるなら早い内に、ということらしい

旅人には老人の家の一室が宿として与えられ、ことの顛末を見届けてから
王都に報告をすることになった



旅人は粗末な寝床の中で、村が寝静まるのを待ち、
夜中になるとそろそろとそこから這い出た

そして彼は森に向かって駆け出した

森に入った人間は全て食い殺されるという言葉を忘れたわけではなかった
しかも彼は剣を村に預け、まったくの丸腰であった

だけれど、彼は走った
あの赤毛の山猫に一目あって、このことを伝える為に



森の入り口で、既に旅人は自分を取り囲む小さな光の集合に気づいた
小さな光は数をどんどん増し、次第に喉をごろごろ鳴らして獲物を狙う獣の存在を示していた
旅人はぞっとしたが、立ち止まって大きな声で取り囲む無数の光に向かって話しかけた

「頼む、赤毛の山猫に会わせてくれ」
旅人は両手を広げた

「俺は武器を持っていない
お前たちに害を与えに来たんじゃない
あの赤毛に話をしに来た
黒髪の黒い瞳の男が来たと、そう伝えてくれ」

四方をぐるりと牙を向いた山猫に囲まれたまま、しばらく待った
山猫たちは彼を見張ってはいたが、今すぐ食い殺す気はなさそうであった

しばらくの後、森の奥からひたひたと駆ける音が聞こえて、
やがて赤毛の山猫が旅人の前に姿を現した

その瞬間、周囲の山猫たちの間に緊張が走ったのを旅人は肌で感じた

「何故また来たの」
赤毛の山猫は不機嫌そうな声を出したが、その目は優しかった

旅人はその茶色い目で見詰められ、一瞬喉をつまらせたが
しずかに山猫の前に跪いて、話し始めた

「お前に、いや、お前たちに話さなければならないことがあって来た」
「なに」
「明日の朝、ここを焼き払いに村人が来る」

ぐるりとまわりを取り囲んだ山猫たちに更なる緊張が走った
山猫はその唸り声にちらりを横目を投げかけ、そしてまた旅人に向き直る

「・・・ここって、この森を?」
「そうだ、お前たちを追い払って畑を広げるために、ここを焼き払うと言っている」
「馬鹿な」

「済まない、どうしても村人たちを止められなかったんだ
この森はもうダメだ
逃げるんだ、よその森に」

「ダメだよ、よその森にはそこの住民がいる
俺たちがドヤドヤ押しかけたって縄張り争いが起こるだけだ
それに、森って言うのは、肉を食べる獣や草を食べる獣、小鳥や虫、そういうものが
数のバランスをとって成り立っているんだ
突然肉を食べる俺たちが大勢他の森に行ったらバランスが崩れてしまう
その森はもうダメになってしまうんだよ」

衝撃的な事実を目の前にして、しかし赤毛の山猫は冷静だった

「知らせてくれてありがとう
俺、長老に話をしてくる」

きびすを返して森の奥へと向かう赤毛を、旅人は追った

「待ってくれ
俺も一緒に行く」

「だめだよ、来ては
殺されてしまうかもしれない
俺たちの爪と牙の力を知っているでしょう
危険だよ」

「いいんだ、それでも
お前に貰った命だから」

旅人は何故一緒に行こうとしているのか、自分でもはっきりとは分からなかった
ただ人間としての贖罪の気持ちからなのか
ことの顛末を見届けたいという気持ちからなのか

それともこの赤毛の美しい山猫の傍らにいたかっただけなのか



森の奥に山猫の白い毛の長老が身体を横たえていた
先陣が一人と一匹よりも早くにこの知らせをこの白い毛の山猫に
届けていたようだが、長老はそれでも直接旅人の口から
村の様子を聞いた

長く生きてきたその老獪な目は、旅人の心を見透かすように暗い光をただえていた


「人間よ、お前の話はよく分かった
人間たちも切羽詰まっているということか
仕方がない
我々も戦うしかないな」

白くて長い毛に覆われた瞼を閉じ、長老は決断を下した


「そんなことをして何になる
人間の持っている武器の前に叶うわけがない
やめるんだ」

「負けると分かっていても戦うしかないのだよ
戦わずに死ぬことは選択できない

人間もそうなのだろう?
森を焼いてでも、自分たちが生き延びたいと願っている
我々も同じだ
人を食い殺してでも生き延びたい
そういうことなのだよ」

白い毛の山猫の目は、不思議と優しかった
もう何も言葉をつげない旅人の白い顔を見て、それからその横に控えている赤毛を見て、
長老は微笑んだ

「帰りなさい
明日は戦いの場でまみえることになるだろうが
ここに来て話をしてくれたことには感謝する
お前が今、森を出るまでの間、誰もお前を襲わない
それだけは約束しよう
だが、明日の戦いにおいてはそれは約束できない
お前も人間なのだから」

白い毛の山猫の声が進軍のラッパのように鳴り響いた
この老いた身体のどこにそんな底力があるのかと思われるような声で高らかに吼えた

「行け、そして伝えろ、人間どもに
明日の日の出と共に決戦だと!」

その布告と共に一斉に山猫たちが遠吠えを始めた
それは決起の時を意味した
森を揺るがす地鳴りのような遠吠えがあたりにこだました

彼らは戦いに乗り出すのだ
もう止められない

うなだれる旅人を包む空気がびりびりと震えた
だらりと下がった手に、赤毛は頬をすりつけ、旅人をいざなって森の外へと向かう



「少しだけ、あの洞窟に行かないか」
「うん」

一人と一匹は無言のまま歩いた
だけれど寄り添って



「すごく前のことのように感じるよ」
旅人は洞窟の壁を手のひらで撫でて囁く
その囁き声も反響してとても優しく聞こえる

「本当にね」
赤毛も囁く

旅人はかつて自分が横たえられていたあたりに腰掛けて
山猫を手招きする
山猫は旅人の膝の上に乗って目を閉じる
旅人の優しい愛撫を背に感じながら、うっとりと目を閉じる

「明日はお前も闘うのか」
「そうだね」
「逃げるわけにはいかないか」
「それはそうだよ、俺も群れの一員だから」
「そうだな」

物騒な話とはうらはらに、重なる二つの影から漏れる声は
夢見るように優しかった

「お前も剣を取るの」
「ああ、そうなるだろうな」
「そうか、じゃあきっと会うね」
「そうだな」

「闘いたくないと思ってここに来たんだ」
旅人は静かにいとおしそうに赤毛を梳りながら話す

「もうあんなのはごめんだ
人が自分の生存本能だけをむき出しにして、
戦いの目的も見失ってただ誰かを殺す
そんなのはもう嫌だと思ったんだ」

「俺だってそんなのは嫌だよ」
赤毛は少し顔を起こして、旅人の掌に頬を擦り付ける

「それに俺たちは負けが見えているしね
闘って切られるにしても、森を焼かれて追われるにしても、
いずれにしたってみんな死ぬんだ」

「すまない、俺が村の人を説得できれば・・・」
「お前は精一杯やってくれたよ」
ぺろ、と手を舐める
少しだけ痺れの残ってしまった手を、優しく

「どうしたって無理なことは分かってるんだ
村の人たちだって必死だもの
彼らだって自分の命を守る権利がある」
「お前たちにだってあるだろう」
「そうだね」

「何故戦いを選択するんだ
他の森に行くことは考えないのか」
「きっと死ぬことよりも誇りを失うことが怖いんだろうね」

「他の森に行っても、その森には必ず支配者がいる
そこに俺たちが群れで押し寄せたら、やっぱり戦いになる
それを避けるなら、俺たちは這いつくばって、その支配者の
おこぼれに預かるしかないだろう
それは長くこの森の支配者だった俺たちには耐えられないことだ
いずれにしても、どこかで闘うしかないんだよ」

「俺はお前と闘いたくない」
「俺だってさ」
ころころと喉を鳴らす
「だけど、誰かにいつかはやられるんならお前がいい」

手を優しく舐め続ける
「痺れが明日の朝に出ないといいけれど」
「何故」
「お前が自分の身を守れるように」

「俺はもう剣を持ちたくない」
旅人の流した涙が手の甲に落ちる
それを眺めて、またそれを舌でぬぐう

「もう戦いは嫌だ
誰にも死んでほしくなんかない
こんなのはただの綺麗事だ
自分でも分かっている
だけれど、俺は誰にももう死んでほしくない
俺が殺した兵士にも、きっと大事な人がいただろう
だけれど、俺はこの手でその関係までも断ち切った
何もかも壊してしまった」

旅人は山猫に縋り付く
山猫の毛に落ちる涙が、水の玉になり、ころころと滑り落ちる

「誰にも死んでほしくないんだ
そして誰よりも、お前に死んでほしくない」

「俺だって死にたいと思ってるわけじゃない
だけど、俺はこの戦いに参加しなくちゃいけない
ここから逃げたら、俺はもう山猫ではなくなってしまうよ
俺は山猫であることに誇りを持っているから」

自分を抱きしめて泣く旅人の頬を舌で優しく舐める
その舌はざらざらしていて優しいものではなかったけれど
傷つけないように、そっと、
その頬に流れる涙をぬぐった

「どうしてだ
どうしてお前はそんなに自分の種族を誇れる
お前は自分の種族の中でそんなに大事に
されてきたわけではないんだろう
なのに、どうしてそんなに胸を張れる」

「分からないけれど」

山猫は旅人の黒い瞳をじっと見つめる

「何でかなんて全然分からないけどさ
俺は毛色の違う山猫に生まれたから
山猫になりたいってずっと思ってた
だから、山猫でありたいし、山猫として死にたいんだよ」

「俺は人間でありたいと思わない
それは恥ずべきことか」

「恥ずべきことではないけれど・・・
でも、俺たちはこの森をずっと支配してきた
だから俺たちはこの森に住むものたちを
守る義務もあると思うんだ
俺たちの戦いは森に住まう全てのものの為でもある」

山猫の茶色の目は、誇りと決意に輝いていた

「人間もきっと、すべてのものの為に闘うときが来る
きっと、もっと大きな戦いになるだろうね
その時こそお前には胸を張って欲しいと思う」



旅人は自分の頬を舐めるざらざらした舌に
自分の舌を重ねた

山猫は少しびくっとしたけれど、
旅人の滑らかな舌を傷つけないように、
また彼の舌を舐めた

一人と一匹はずっとそうしていた



地平線がうっすら白んで、別れの時は来た

洞窟から出た一人と一匹は
後ろを見ずに互いの場所へと駆け出した






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